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2014年 NO.502



『毒麦の譬
(マタイ13章36〜43節)


  

 「つまずきとなる者と不法を行う者とを、ことごとく御国から取り集めて

燃える火の炉に投げ込みます。そこでは泣き叫んだり、歯ぎしりをしたりするのです」
                      
                           (マタイ13:42)

この御言は、非常にショッキングな内容です。なぜなら、「御国から取り集めて」と

あります。本来、御国とは、イエス・キリストの救いに預った者が入れられる永遠の

命の国です。
しかし、その御国から取り集められるとは、どういうことでしょう。

この毒麦の譬は、この地上に蒔かれた種を説明しています。

ですから、「御国から集める」とは、この地上で御国に入るための信仰を持った者の

ことを示します。
しかし、この地上で信じたからといって、必ずしも御国に入るとは

限らないことが示されています。マタイ13章49節でも天の御国は、「地引き網の

ようである」と語られ、「義人たちの中から、悪人を選び分け、燃える火の炉に投げ

込む」とあります。これらは、「白き御座の審判」のことを示しています。

ですから、いくら地上で信者と言えども、御国から取り集められて燃える火の炉に

投げ込まれるのです。
このことは何を意味するのでしょう?

 それは、「主よ、主よ、と言う者が、皆天の御国に入るのではありません。」

(マタイ7:21)と言われる厳粛な審き(さばき)があるということです。

ですから、少なくとも「罪人が罪人として認めて、へり下る悔いし砕けた心」を持つ

必要があります。
なぜなら、主は「砕かれた悔いし心をさげすまない」(詩51:17)

と言われ、「こんな罪人の私をあわれんで下さい」(ルカ18:13)と祈った取税人

を、絶対主は義とされたからです。罪人が人を裁き、八つ当りし、反発するなら、

自らを罪人と認めていないことになります。
罪を悔いて主を信じた信者は、少なくとも

自分の罪を認め、主に心を低くしていくべきではないでしょうか。そのためには、

当り前と思っている自分の体面という偽りのプライドを捨てていくべきでしょう。

私たちは、自分の心の使い方で、へり下る事も、傲慢になることも
出来ます。

ですから、意識して自分の心の使い方を変えて行きましょう。


     

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