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2014年 NO.517 |
人々が、実際にはたくさんいたのです。禁教令の時代には、「踏み絵」という検宗があり、 正月になると、全村揃って踏み絵を踏まされ、強要されました。そして、隠れキリシタンの 人々は、捕縛を恐れて妥協します。すると、良心の呵責(かしゃく)を覚えて神父に告解し、 改心戻しの祈りを唱えて赦しを乞いました。しかし、改心戻しをすれば、それで全て帳消に なるという訳ではありません。単なる自分の責任逃れのために改心戻しをしても、それは 「信仰はあっても無いに等しい」ものです。自分の心をごまかす祈りを唱えても、絶対主の 前には何の意味もありません。しかし、改心戻しを続けた者は、全てダメというものでも ありません。実際にイエス様は、「転んでは、改心戻し」をした五島の隠れキリシタンの 人々の心を汲んで、パライソへ引き上げられたこともありました。 彼らは、決して「改心戻しの祈りを唱えたから赦してもらえる」とは考えていませんでした。 その生涯、ずっと良心の呵責を覚えて、頭を上げることをしなかったのです。彼らは、 生涯に於て、自分たちの罪の呵責に苛(さいな)まされて、心を痛めていたのです。 「人間は弱いから、転んだ私をどうか赦して下さい」と言って赦されるわけではありません。 罪人が罪人である自分を翻すことは、イエス様の十字架の贖いを否定することになります。 本来、生まれながらに全的に罪人であるのに、自分が認めてもらえるところなど1つも ありません。たとえ、「良いこと、正しいこと」をしたところで、罪人がしたことですから、 罪なのです。だから過ちを取り戻すことなど1つもできません。これが、私たちなのです。 だから、信じる前も罪人で、信じてからも罪でしかない私たちが、罪人である自分を正直に 受け留め、ただ悔いていくかにかかっています。なぜなら、イエス様を信じた私自身は罪人 で、信じた後も罪を犯している罪人にすぎないからです。この現実は、死ぬまで変わりません。 ですから、この事実に立って死ぬまでへり下っていくだけです。 主は、その「悔いし、砕けた魂を軽んじない」と言われました。ですから、絶対に罪を棚上げ せず、自分が善人であるが如き傲慢な態度は、捨てていくべきです。「反発、反抗、八つ当り、 弁解、申し開き、陰口、裏切り、逃避」などは、罪人であると分っていながら、自分を守る 領域があると思ってする行為です。主は、マグダラのマリヤのように、全的に罪人であると 自覚している人の救い主であることを悟りましょう。 |
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