ヨハネの手紙の難解さは、原罪を持った100%罪人の私たちに、「罪を犯さないため」
という目的で書かれているからです(2:1)。このことは、更に、3章6、9節で
「誰でもキリストに在る者は、また絶対主から生まれた者は、罪を犯し続けません」と
あります。そして、「罪を犯す者は、キリストを見たこともなく、悪魔から出ている者です」
(3:6、8)とあるのです。又、「絶対主の戒めを守らない者は偽り者であり、絶対主
の中に在る者は、キリストが歩まれたように、その人自身も歩むべきです」とあります。
これらの御言をそのまま受け留めていくなら、「罪人でなくなる道を歩め」ということに
なります。もともと、100%罪人で、この世には義人は一人もいないはずなのに、
イエス様を信じたからといって、罪人に他ならない私たちに「罪人でなくなるような道に
歩め」と言われても出来る訳がありません。それらを求められたら、お手上げです。
そこで、2章1節の「罪を犯さないため」とある御言の前後関係を見ていくなら、
決して「罪を犯さない人間となれ」と読むことは出来ないことが分ります。
それは1章8節に、「罪を持っていないというなら、欺くことであり」、10節では、
「罪を犯したことがないというなら、絶対主を偽り者とする」とあります。
また、2章1節の「罪を犯さない」という文章に続く後半では、「罪を犯す者があれば」
とあり、その者たちには、イエスキリストの贖いがあると記されています。ということは
、ヨハネは決して「罪を犯さない人間となれ」と語っているのではなく、「罪を野放し
にしてはいけない」という勧めとして解釈すべきです。ヨハネは、罪人が信仰によって
罪が消えてしまうとは語っていません。むしろ、「罪を犯す度ごとに告白していきなさい」
(1:9)と言っていますので、罪人が罪を犯す前提での手紙です。
そこで「罪を犯し続けません」とある御言も、「罪を野放しにしません」と解釈すれば、
キリストに在って、絶対主の戒めを守り、互いに愛し合う勧めも良く分ります。
御父と御子との交わりの中にある者が、罪を野放しにするなら、闇の中を歩むことで
あって、光の中を歩む者とならないからです。ですから、クリスチャンは、キリスト
によって原罪の罪が贖われて御国へ行ける者とされたのですから、地上で犯した罪の
責任ぐらいは、悔い改めて取っていくのは当然でしょう。このことが、「罪を犯さない
ため、すなわち、罪を野放しにしないため」と解釈していくことが、ヨハネの手紙全体
を正しく読んでいく助けとなります。 |
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