『絶対主の愛とイエス様の贖いの中にある者として、
積極的な心で主に仕えて行く』
|
Tヨハネ4:7〜16
(起)「絶対主の愛とイエス様の贖いの中にある者として、積極的な心で主に仕えて行く」
ことを学んでいきたいと思います。
(承) さて、私たちは、通読を通して毎年このヨハネの手紙を読んでいますが、読む度毎に
落ち込んでしまいます。何故かと言いますと、「誰でもキリストに在る者は、罪を犯し続け
ません。」(3:6)と書いてあるからです。現実の私たちは、イエス様を信じても、信じる前
と信じた後も変わらず、今でも罪を犯してしまう者です。だから、「自分で勝手に救われたと
思い込んでいるだけで、本当は救われていないのかな」と考え込んでしまうのです。
そして最終的には、「信じた者は、やっぱりここに書いてあるように罪を犯さない人間を目指して
いかないといけない。罪を犯さない人間として、正しいことを行っていくべきだ」と思い直します。
しかし、罪を犯してしまった時には、「自分は、聖書に書いてある通り、正しく生きようとして
いたのに、でも、またやっちまった。罪人だから仕方がないなー!」と、自分の罪を棚上げにし、
必ず言い訳を始めます。そして、「根っから罪人、芯から罪人という原罪を持つ自分」から
だんだん離れて行ってしまい、原罪の自分を見失うのです。これが現実です。しかし、最近の
イエス様との交わりを通して教えられたことは、私たちは、「根っから罪人、芯から罪人」
という所から、絶対に離れてはいけないということです。イエス様は、「罪人である人間が
いくら良いものを捧げたとしても、絶対主は喜ばれません。一番大切なものは、行いではなく
「悔いし砕かれた心」です。わたしはそれを蔑みません。ですから、自分は罪人であるということ
を素直に認めていきなさい」と仰いました。
(転) では、ヨハネさんが書いたこの手紙の内容は、全部間違いなのでしょうか。そうでは
ありません。今日お読みしたところを見ていくと、私たちに対する絶対主の愛について書かれて
います。絶対主は、ご自分の方からひとり子イエス様をお遣わしになり、十字架上で苦しむ御子の
姿を、涙を流して見ておられました。絶対主がそこまでして下さったのは何のためですか?
根っから罪人である私たちの原罪の贖いを、御子を通してして下さるためでした。そのために、
絶対主はご自分の御子を犠牲にされたのです。それ程の事までして、絶対主は私たちに対して
愛を明らかにされました。それ故に、芯から罪人の私たちでも、イエス様を信じる信仰により、
絶対主の恵みによって、天に引き上げて頂けるのです。この絶対主の思い、絶対主の愛が本当に
分かったら、私たちは絶対主に、どうして答えて行きましょうか?なお、自分の罪を棚上げにして
いくのでしょうか。それは絶対に間違っています。もうこの地上で、どんなにメンツを失おうが、
プライドが砕かれようが、そんなことはどうでもいいことです。私たちは、ただイエス様の贖い
によって御国へ引き上げられるのですから、地上で犯した罪ぐらいは、正直に謝り、その責任を
取って行くべきではないでしょうか?その素直な心を持っていくならば、私たちは自然と「罪を
犯さない」方向に向かって行くと思います。そして、「イエス様の御心に適った生き方をしたい。
何でもやらせて下さい」という、積極的な生き方になっていくと思います。
(結) 絶対主は、私たち一人一人が、この自発的な心を持つために、ここまで取り扱って
下さっていたのです。今まで私たちは自分の事ばかり考え、「自分が正しい人間にならなければ、
天に入れて頂くことはできない。自分のような者はダメだ」と思っていました。だから、
少しでも良い行いをして、なんとか受け入れていただこうと思って、いろいろやってきました。
でも、それが間違っていたのです。私たちは、イエス様の贖いによって、もう受け入れられて
います。それが分かったら、自分の心をもっと前向きに使って行くべきではないでしょうか。
「こうしないと天に行けないから」ではなく、御国の約束は、もう既にイエス様によって戴いた
のですから、感謝し、遜って、主のために為すべきことをしていこうではありませんか。
絶対主は私たちに、「ここに残された者たちは、これからの働きのために必要な人材だ」と
仰って下さいました。ですから、これからは信仰の初歩を学んでいくのではなく、絶対主の
働きのために必要な人材として、積極的に自分を使って下さいと、献げるひとり一人になって
行きましょう。その思いで全員が一致し、一つの大きな空っぽの器を献げていくなら、そこに
約束の油が注がれて行くでしょう。これが、絶対主の愛と、イエス様の贖いの中にある者として、
積極的な心で主に仕えて行く心です。 |
|
|
|