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2014年7月13日     



主のために頑張る心



 第Tコリント4:6〜7、9:24〜27


(起)「イエス様の贖いの故に、なんとか主のために頑張る心をもって、天を目指して歩んでいく精神」

を学んでいきたいと思います。


(承) さて、4章の初めの方を見ると、パウロさんは、「私は裁かれることに関して、何ら意に介し

ません。それどころか、自分自身を裁くことさえしません。というのは、私は何一つ、やましいところが

ないからです」と語っています。私たちはここを読むと、「パウロさんはすごいな。『やましいところ

が一つもない』ということは、パウロさんには罪がなかったということかな」と思いがちですが、実は

そうではありません。それは、9:27を見ると分かります。彼は、「自分の体を打ち叩いて服従させ

なければ、自分自身が失格者になってしまうかもしれない」と語り、自分も原罪があるので、罪過に

よって失格者になってしまう可能性があるということを、自ら表現しています。また、他の箇所では、

「私は罪人の頭です」とも言っていますから、パウロさんも、「全て落ち度なくやってきた」と言い

切れるような人ではなかったと思います。


(転) では、何故パウロさんは、「私は何一つ、やましいところがない」と言うことができたので

しょうか。それは、パウロさんは、罪のない人間として語っていたのではなく、絶対主の奥義を語る

ために召された者として、主の奥義を語っていたからです。もう一つは、イエス様にあって、

そのように言える立場をいただいていたからです。どういうことかと申しますと、パウロさんは、

長い間、律法の縛りの中にありましたが、イエス様の完全な贖いによって律法から解放されたからです。

それは、イエス様が律法を終わらせられ故です。これまでの年月は、年に一度、大祭司が至聖所に

入って行って、知らずに犯した罪や、知っていても悔い改めなかった罪の贖いを、民のためにしな

ければなりませんでした。
しかし、絶対主の御子であるイエス様が来て下さり、山羊や子羊の血では

なく、ご自分の聖なる命をもって完全な贖いをして下さいました。ですので、私たちのスルーした

全ての罪も完全に贖われたのです。ですから、もう至聖所に行って贖いをしてもらう必要はありません。

又、あえて罪を見て自分自身を痛めつける必要もありません。私たちは、罪を犯した自分自身を苦しめ、

「もっと反省していくべきだ。そうしていくことで自分は変わっていくんだ」と自分を責め続けますが、

それは大間違いです。いくら、自分自身を苦しめても罪は消えませんし、それで罪が軽くなるわけでも

ありません。ですから、もう ゴチャゴチャ自分を呵(さいな)むのは止めて、勝手なこだわりを捨て

ましょう。また、私たちは、罪人であるということについて、「自分はそんな者じゃない」と否定

できる者ではありませんから、地上で犯した罪の責任ぐらいは、潔く取っていくのは当然です。

罪を犯した事実は変わりませんので、勝手に弁解したり、言い訳するのは、罪の贖いを受けた者として

ふさわしくありません。ですから、そのまま認めて謝れば良いのです。私たちは、人から指摘され、

怒られることを嫌いますが、そこで、「罪人なんだから、怒られて当然だ。ごめんなさい」と言って、

素直に謝っていけばそれで良い
のです。場合によっては、理不尽な怒り方をされることもあるかも

しれません。相手も罪人ですから、間違って怒ることもあるでしょう。しかし、そのことに対して、

いちいち弁解しても、何の意味もありません。罪人が罪人に向かって自分の義を表しても、それは

喧嘩になるだけです。ですから、そういう時は自分が引いて、全ての事柄については絶対主が知って

おられるのですから、「あなた様の前に裁きを委ねます」という気持ちで、絶対主にお委ねして

いけば良いのではないでしょうか。自分自身が弁解をして義を立てても、罪人であるという事実は

動きませんし、こだわっても仕方がありません。私たちには、イエス様による全ての罪の贖いが

あるのですから、この贖いがある以上、「自分が罪人である」ということを、そのまま認めたと

しても怖くはない筈です。私たちは、この真理の故に、御国が約束されているのですから、そこに

立つべきなのです。


(結) 私たちは、このイエス様の贖いの故に、永遠の国籍が天にあるのですから、これからは天に

心を向けていきましょう。これ以上、罪人である自分自身を痛めつけても、始まりません。しかし、

罪の棚上げではないことは、承知しておくべきです。私たちは、ただ罪人であるという事実をその

まま認め、むしろ前向きに、天にエネルギーを向けていきましょう。
私たちは、自分自身に力がある

からやるのではなく、イエス様の100%の贖いがあるが故に、「なんとしても、主のために頑張る心」

を持って、天を目指して歩んで行きましょう。
その心は、自分を打ち叩いてでも、なんとか目標に

向かって行こうとする心です。私たちは、2位や3位に目標を定めるのではなく、1位に目標を定め、

最後まで精一杯走り抜こうではありませんか。    



                                      

  
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