ローマ書6:1〜14
(起)「霊の本心を見て生きていく生き方」について、学んでいきたいと思います。
(承)さて、この6章は、1〜10節までは、イエス様を信じたことによって、私たちに
与えられた立場について書かれ、11節からは、信じた後の私たちの歩みについて、書かれている
事が分かります。そこで11節を見ると、「一方では罪に対して死んだ者であり、他方では
絶対主に対してイエス・キリストにあって生きている者であると、みなし続けなさい。」と
ありますが、私たちは、まだ「罪に対して死んだ」ということを実感していませんが、
既にクリスチャンはイエス様と共に死んだ者として、罪の原罪から解放された立場を戴いて
います。しかし、実際には肉も持っていますので、この御言葉は嘘なのかと思えてしまい
ますが、そうではありません。なぜなら、キリストの死によって私たちも死んだという事実が、
ギリシャ語のアオリスト形なのです。それは、現在の状態の如何に関わりなく、既に起った
事実である事を示す時制が、アオリスト形だからです。ですから、私たちは、まだ死んで
いない肉を持っていても、その肉は死んだ者としての立場を持っているのです。と同時に、
11節からは、その立場にある者の生き方が記されているのです。それは、御霊によって
霊の本心で生きていく生き方をして行きなさいという、新しいクリスチャンの生き方です。
ですから、11節の御言葉は、「そのように、みなし続けて生きて行きなさい」という意味
です。「みなし続ける」ということは、何かだまされているような、自分をごまかしている
ような気がしてしまいますが、ここではアオリスト形という文法が使われていますので、
「現在の状況の如何にかかわらず、もう既に過去においてイエス様がして下さった救い
として、肉に捕われず、霊の本心で生きて行きなさい」と、この御言葉を理解して行って
いいということです。
(転) では、その生き方とは、具体的にどのようにしていけば良いのでしょうか。
それは、11節の御言葉をそのまま受け止め、「自分はもう罪に対して死んだ者だから、
肉の思いを見て、その中に留まるのではなく、絶対主を見て、霊の本心の中に歩みなさい。」
ということです。そして、「このように書いてあるから、私はそうします。」と、素直に
信じてそのように生きていくことです。しかし、私たちは、現実問題として、肉を意識すれば、
それにとらわれてしまいますから、自分がそちらに意識を向ければ、肉の心の方向に向かい
ます。例えば、塀に節穴があって、その下に、「穴から覗くべからず。」という張り紙が
してあったら、そこを通る度毎に気になって、覗きたくなってきませんか?
それは、「覗くな」という肉の意識が出てくるからです。もし張り紙がなかったら、
何も気に留めずに通り過ぎると思います。それと同じことです。私たちが、肉に意識を
向けるとそれに捕われます。だから、意識しなければ良いのです。そうすれば、そこから
離れることができます。それを訓練でずっとやっていけば、いつも霊の本心で生きていく
ことができるようになっていきます。もちろん肉の思いもありますが、それに心を留めな
ければ、見なくても済むのです。しかし、これは棚上げにすることとは違います。
嫌な肉があることは現実ですから、その自分自身の抱く罪に対して悔いる心は必要です。
ただ、それにわざわざ、捕われるなということです。わざわざ肉を見て、肉の中に留まる
必要はありません。また、その肉に従う義務もありません。イエス様は、「霊の本心を見て
生きていけばいいのです。」と仰って下さっているのです。
なぜなら、イエス様は、肉を持つ私たちが生きている間は、罪は消えてしまわないことも
ご存知だからです。だから、「それを全部きれいにしなさい。」とは言っておられず、
「肉に関しては、自分自身が罪の肉を持っていることをちゃんと認めて、それを告白して
悔いる気持ちさえあれば十分です。あなた方に与えた贖いの故に、霊の本心で生きて
いきなさい。」と仰って下さっているのです。
(結) ならば、私たちは、霊の本心だけに目を向けていく心を持って行けばいいのです。
肉の現状はありますから、それは素直に認め、罪を犯したことについては当然悔いていく
べきです。その心を持ちつつ、御霊によって与えられた霊の本心で生きて行くのです。
これがクリスチャンの生き方です。はっきりと聖書に書いてあるのですから、この生き方
でいいんです。私たちは、「主イエス・キリストにあって生きている」のですから、
肉の心を見続けていくのではなく、霊の本心を見続けていけば良いのです。
パウロさんは、「絶対主の御子を信じ仰ぐことによって、生きている。」(ガラテヤ2:20)
と言いました。確かに肉は持っているけれども、イエスキリストを信じ仰ぐ、その霊の本心
によって、今生きているんだということです。私たちの生き方もここにあります。
どうか、そこから右にも左にもそれないで、霊の本心でイエス様を信じ仰いでいく、
その生き方一本で歩んで行きましょう 。
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