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2013年5月11日    



私たちが砕かれた悔いし心を持つことができない理由



ローマ書7725



(起)このところ(ローマ書7:7〜25)から、「私たちが砕かれた悔いし心を持つことができない

理由」について、考えていきたいと思います。


(承) さて、今日お読みした中には、「善をしたいという願いがあるのに、かえってしたくない

悪を行ってしまう。」という、私たちの内面の葛藤の罪について書かれています。これは一般に、

このことについて考え始めるのは、だいたい思春期のはじめ頃です。私も、思春期の頃からずっと

その内面の罪について悩み苦しんでいました。そして、高校生の頃に「そういうところから解放さ

れたい。そこから救われたい。」と思って教会に行き始め、「古いものは過ぎ去った、すべてが

新しくなった。」(Uコリント517)という聖書の御言に惹かれて、「今まで自分が悩んでいた

心の葛藤からも解放され、全部新しくされるんだ。」と思って、イエス様を信じ救いを受け取り

ました。ところが、今日の今日まで、その御言葉は成就しておらず、惨めな自分というのは、

未だに変わっていません。むしろ、「自分のしたい善を行わないで、したくない悪を行って

しまう」という自分の姿は、一つも変わることなく、今なお抱え込み、悩み苦しんでいます。

私はこの悩み苦しむ気持ちは、クリスチャンならみんな持っているものだと思っていましたが、

実はそうではなく、その気持ちを切った人がいるということが、分って愕然としました。

「自分のしたいことを行わないで、したくない悪を行ってしまう」という自分の罪というものは、

誰でも嫌です。しかし、その嫌だと思って「悩む心」を切ってしまうなら、自分自身の罪に悩む

こともなく、「自分は罪が分かりません」ということになります。罪を直接指摘されている時は

分かっても、そこから離れると、「なんでそこまで言われなくちゃならないの。」という気持ち

になり、「罪が分からない。認めたくない。」という、反発の世界に入っていくのです。

それは、「自分はできないからしょうがない。人間みんな同じだ」と、過去に切ってしまった

自分
がいるからです。これで、多くの人が「砕かれた悔いし心」をなかなか持てない原因が

分かりました。罪が分からなければ、何を砕くのかも分かるはずがありませんから


(転) では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。

それは、「罪があるのは、人間だから仕方がない」と諦め、悩む心を切った自分自身が間違って

いたことに気づき、悔い改めるべきです
。そこには、必ず切った理由がある筈です。

だから、その理由をきちんと考えるべきです。多くの場合、「自分は悪くない」と責められる

のが嫌で、自分の心で考えるのを止め「切る」と決めた場合があります。ですから、その部分を

断罪して、そこから離れないことには
、元に戻れません。切った心とその原因をはっきりと自覚し、

そこに自分を守る罪の根があることに気付かなければいけません。過去に「自分は悪くない」と

決めたことがあるので、反発が当たり前に出てくるのです。これは、絶対主の前に一番恐ろしい

罪であり、絶対主はその者を許しません
。絶対主が受け入れられるのは、「罪を認めて砕く、

悔いし心」だけです。詩篇51篇に、罪を犯した後のダビデの悔いる心が表されていますが、

その悔いる心をご覧になった絶対主は、最後に、「どんな生け贄よりも、砕かれた悔いし心を

蔑まない。」と仰いました。ですから、私たちも今日のメッセージを受け止め、自分が間違って

いたことを明確に認めるべきです。それが分かったなら、罪を犯してしまう自分を悔いる心しか

出てこない筈です
。同時に、悔いる心があれば、「すいません。」と素直に言うことが出来ます。

そして、我を砕いていく方向に向かっていく筈です。私たちが今日の今日まで現実に犯して

きた罪は、イエス様の贖いの故に赦されます。しかし、罪は一生涯なくなりません。

ですから、自分の犯した罪を悔いていく責任はあります。確かに、救いはイエスキリストの

十字架であり、贖いによって罪を帳消しにされても、私たちの犯し罪の責任を自覚していく

必要はあります。ですから、「砕かれた悔いし心」は、絶対主の前に当然必要です

罪人が罪の自覚もなく、「自分は赦されているから悔いなくてもいい」と言うのは、

間違いです。確かに、罪を認めることは嫌でしょう。しかし、罪人にそんな勝手なことは

赦されません
私たちは、自分自身が犯す罪の現実を自覚し続けていくことと、救いを

受けているということとは別物です。
ですから、罪を悔いてその生涯を送って丁度です


(結)「どんな生け贄よりも、砕かれた悔いし心を蔑まない。」と言われた絶対主に対して、

私たちは、あえて、悔いる心を自分の意志で「切る」という選択をしたのですから、その責任は

取らなくてはなりません。「私は、自分が責められるのが嫌で、心で考えるのを止めました、

そして、罪の自覚を無くしたのは、そこからです」と、自分の責任として、主の前に悔い改める

べきです。その身勝手な心が間違っていたと認め、心を変えていくならば、それが反抗心の

出口になり、「砕かれた悔いし心」の入り口
になります。絶対主は、それを認めるものを

「軽んじない」と言って下さいます。これが本当の恵みです。そして、私たちの霊の本心は、

「罪人が罪人であることを認め、砕かれた悔いし心をもって、イエス様に純粋に従って行く」

と定めることではないでしょうか
。ならば、その霊の本心を具体的に表していきましょう。

口だけではなく、具体的に表わして初めて、主の前に砕かれた悔いし心を持った教会だと

言われるのです。






                                      

  
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