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2008年3月16日






『救いの確信を持った者の歩み』
                                    



テトス3章1節〜8節




       

@ 今朝は、救いの確信について、新たな角度から考え、救いの確信を持った者の歩みに

ついて学びたい
と思います。

A さて、救いの確信を持つためには、救いとはどういうものかを知らないといけません。

救いは人間業ではなく、創造主から来る恵みによります。これまでは、救いについて学ぼう

とすると、あちこちと御言葉をひもときながら学んでいましたが、実は、この箇所にすべて

書かれていることに驚きを覚えました。

B では、ここから、救いと救いの確信について学んでみたいと思います。

まず救いについて見てみましょう。3節から、私たちは以前、どういう者であったか分かり

ます。「実に不従順で愚か者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの

中に生活し、ねたみ合う者でした。(3節)しかし、私たちの救い主なる神の慈しみと、

人への愛とが現れたとき、(4節)、神は、私たちの行った業によってではなく、ご自分の

あわれみの故に、私たちを救って下さいました。(5節)」これは、信頼できる言葉です

から、これらのことを確信を持って話してください。それは、神を信じている人々が、

良い業に励むことを心がけるようになるためです。(8節)」即ち、良い業に励むことを

心がけることは、救われた者の歩みなのです。確かに、13節だけを読むと、ただ良い行い

だけが求められているかのように思ってしまいます。ところが、救われた者であっても、

過去の自分があり、自分の内側を見たら良いものは一つもありません。その状態の中で、

「救われているのだから確信を持って下さい。」と言われても、自分を欺いているように

思えてしまいます。しかし、神のいつくしみが現れたとき、私たちの行いによってではなく、

聖霊によって
救って下さいました5節)。この「救って下さいました。」の時制は、

ギリシャ語のアオリスト形であり、現在の状況いかんを問わず過去に成就したことの確かな

事実を意味しています。これは、「すべてが
新しくなりました。」も同じです。現実に

私たちは十字架のイエス様を見ていませんし、私のために死んで下さったと直接言われた訳

でもありません。しかし、自分のものとして受け取るなら救われるのです。救いは、受け

取るものとして計画されたからです。しかも、受け取るときには、聖霊の後押しを受けて

受け取ることが出来るのです。その結果、信じたものが受けるご褒美は永遠の命であり、

神の子とされる特権です。子とされるとは、親の持っている力と命を受けることが出来るの

です。これは「信頼できる言葉ですから、確信を持って話すように」と言われています。

何故なら、確信を持って話をすると、それを聞いた人々が、嬉しくなって「良い業に励もう

と心がけるようになる。」からです。このように救いの確信を持つとは、「大丈夫だと

高をくくること」ではありません。こんな恵みを頂いているのだから、「良いわざを

心がけていこう。」というへりくだった心で、慎重にやって行こうとする心を持つように

なるということです。すなわち、恵みの尊さが分かったなら、むしろ慎重になっていくの

です。

C 
私たちが確信に立つなら、人に平安を与えていくでしょう。この確信に立つとは、

強気に出ることではありません。又自信にあふれて語るものではありません。確信とは、

福音を伝えていく隠し味で、人に平安を与えていくものです。
私たちは、こんな素晴らしい

恵みを頂いているのですから、この救いと確信を自分のものとしていきましょう。



    


                                        

  
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