『救いの確信を持った者の歩み』
テトス3章1節〜8節
@ 今朝は、救いの確信について、新たな角度から考え、救いの確信を持った者の歩みに
ついて学びたいと思います。
A さて、救いの確信を持つためには、救いとはどういうものかを知らないといけません。
救いは人間業ではなく、創造主から来る恵みによります。これまでは、救いについて学ぼう
とすると、あちこちと御言葉をひもときながら学んでいましたが、実は、この箇所にすべて
書かれていることに驚きを覚えました。
B では、ここから、救いと救いの確信について学んでみたいと思います。
まず救いについて見てみましょう。3節から、私たちは以前、どういう者であったか分かり
ます。「実に不従順で愚か者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの
中に生活し、ねたみ合う者でした。(3節)しかし、私たちの救い主なる神の慈しみと、
人への愛とが現れたとき、(4節)、神は、私たちの行った業によってではなく、ご自分の
あわれみの故に、私たちを救って下さいました。(5節)」これは、信頼できる言葉です
から、これらのことを確信を持って話してください。それは、神を信じている人々が、
良い業に励むことを心がけるようになるためです。(8節)」即ち、良い業に励むことを
心がけることは、救われた者の歩みなのです。確かに、1〜3節だけを読むと、ただ良い行い
だけが求められているかのように思ってしまいます。ところが、救われた者であっても、
過去の自分があり、自分の内側を見たら良いものは一つもありません。その状態の中で、
「救われているのだから確信を持って下さい。」と言われても、自分を欺いているように
思えてしまいます。しかし、神のいつくしみが現れたとき、私たちの行いによってではなく、
聖霊によって救って下さいました(5節)。この「救って下さいました。」の時制は、
ギリシャ語のアオリスト形であり、現在の状況いかんを問わず過去に成就したことの確かな
事実を意味しています。これは、「すべてが新しくなりました。」も同じです。現実に
私たちは十字架のイエス様を見ていませんし、私のために死んで下さったと直接言われた訳
でもありません。しかし、自分のものとして受け取るなら救われるのです。救いは、受け
取るものとして計画されたからです。しかも、受け取るときには、聖霊の後押しを受けて
受け取ることが出来るのです。その結果、信じたものが受けるご褒美は永遠の命であり、
神の子とされる特権です。子とされるとは、親の持っている力と命を受けることが出来るの
です。これは「信頼できる言葉ですから、確信を持って話すように」と言われています。
何故なら、確信を持って話をすると、それを聞いた人々が、嬉しくなって「良い業に励もう
と心がけるようになる。」からです。このように救いの確信を持つとは、「大丈夫だと
高をくくること」ではありません。こんな恵みを頂いているのだから、「良いわざを
心がけていこう。」というへりくだった心で、慎重にやって行こうとする心を持つように
なるということです。すなわち、恵みの尊さが分かったなら、むしろ慎重になっていくの
です。
C 私たちが確信に立つなら、人に平安を与えていくでしょう。この確信に立つとは、
強気に出ることではありません。又自信にあふれて語るものではありません。確信とは、
福音を伝えていく隠し味で、人に平安を与えていくものです。私たちは、こんな素晴らしい
恵みを頂いているのですから、この救いと確信を自分のものとしていきましょう。 |
|
|
|