ヨハネ黙示録7章9節〜17節
@ 今朝のイースター礼拝は、イエス・キリストの復活が、私達の希望に光を輝かすもの
であることを学びたいと思います。
A さて、もしイエス・キリストが復活されず、ただ十字架の死で終わっていたなら、
弟子たちは、イエス・キリストに対する期待感や確信を持つことが出来なかったでしょう。
というのは、彼らは、「この方はただの人ではなく、創造主から遣わされた生ける神の子
キリストだ。」と思っていました。ところが、この方があっけなく殺されてしまったのです。
キリストの死は、弟子たちにとって落胆と敗北感の暗闇に陥れ、脱力感の中に陥し入れた
ことでしょう。しかし、そんな彼らでしたが甦られたイエス様とお会いした時、それまでの
絶望が吹き飛んで喜びにあふれ、主への信仰が確信となっていったのです。この暗闇の
世界から光の世界へのドンデン返しこそ福音であり、救いなのです。このドンデン返しが、
終わりの時にも起こってくるのです。
B では、黙示録の7章から見てみましょう。使徒ヨハネは「数え切れぬほどの、大群衆が、
白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と子羊との前に立っている。」のを見ました。
彼らは、大きな患難から抜け出てきたものたちで、苦しみと悲惨な目を味わっていました。
そんな彼らは、6章のところで「いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の
復讐をなさらないのですか。」と叫んでいました。そして、しばらくの間待つようにと言い
渡され、忍耐していたのです。しかし、彼らが慰めを受けるときが来ました。彼らの目の
涙がすっかり拭い取られ、命の泉のほとりにいたのです。子羊の血によって洗われ贖われた
者たちでしたので、今慰めを受けることができたのです(7章16,17節)。これこそ、主が
死から甦られたことによって受ける慰めであり、主の復活から来る希望、また勝利なのです。
クリスチャンは、この光の世界があることを確信していますから、主の癒しを信じて祈り
ます。また、心のうめきと願いを祈ります。それは、苦しみの向こうには、光があることを
知っているからです。こうして私たちは、主が癒し主であり、祈りを聞いて下さるお方で
あることを味わっています。しかしこれは、人々の目には、きれいごとの世界と映って
しまうでしょう。なぜなら、この世の中は、食うか食われるかの世界で、そんなきれいごと
の世界があるはずがない、と思っているからです。しかし、救いはきれいごとの世界です。
というのは、創造主は、自らの独り子を罪深い人間の身代わりとしてこの世に送られ、この
身代わりの事実を信じて受け取るとき、信じる者を救うとされたからです。そして、復活
されたイエス様と同じ永遠の命を下さると言われるのです。これこそ、きれいごとの話です。
しかし、こんなきれいごとの世界があったら、どんなにすごいことでしょうか?
正に、起死回生の光の世界に入っていくことです。
C 私たちは、きれいごとの世界が現実にあり、世にあってもその生き方が通用することを
証していくのです。何故なら、キリストの復活があったからです。ですから、弟子たちと
同じ感動を以ってイエス・キリストの復活が、私達にきれいごとの希望の光を輝すもので
あることを、堂々と、しかもドンデン返しの光の世界があることを証していこうではあり
ませんか。 |
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