@ 今朝は、「聖書に書いてあることは今日も起こる。」ことを確認し、それを阻もうとする
悪魔の策略があることを学びたいと思います。
A さて、使徒行伝を読むたびに霊が奮い立ち燃やされていくのですが、今回ほど、私達の願いは
この通り、今の時代にも証していくことだと感じたことはありません。
なぜなら、イエス・キリストを信じた当初は、聖書をそのまま信じ、そのまま主がしてくださる
と思っていましたのに、「今の時代には、聖書が完結したので、使徒時代のようなしるしは、
今はない。」と教えられてきたからです。しかし、どうしても腑に落ちないものがありました。
なぜなら、私達は昔も今も変わらず、同じ御言を信じて信仰の学びをしているのに、使徒行伝の
ことだけは今日には適用できない、というなら聖書をそのまま信じていくこが出来なくなる。
一体誰が聖書を解釈し、御言をより分けていくのか?人間にそんな知恵と判断力があるという
のか?もしそうなら、聖書の御言は、特定の人しか分からず、イエス様を証しするのも特定の人
しかできなくなる。これはおかしい。私達は、騙されている。これこそが、今分かってきたこと
です。聖書の御言は、今日も現実だからこそ信じ、証ししたいと思ったのではないか!ところが
その答えは、「聖書が完結するまでの時代は、聖霊の働きによって福音が正しいことを示す必要が
あった。しかし、今は、聖書が完結していて、そのまま読んで信じていく時代に入ったので、
異言も止んだのだ。」と。しかし、「空っぽの器に油が満たされる」と示されたとき、信じたとき
に持った素朴な心が戻ってきたのです。「やっぱり、今日も聖書の言葉はその通りになるのだ。
これまで、騙されてきた。」と、はっきりと目が開かれたのです。ここには、真理から目を背け
させようとする悪魔の働きがあったのです。
では、ペテロのメッセージに対し、大祭司と民の指導者、長老、学者たちの反応から、悪魔が
どのように人を騙しているのか?その働きを見ていきましょう。
B さて、ペテロとヨハネは、大祭祀に捕らえられました。それは、「この人が直り、立っている
のは、あなた方が十字架につけ、神が死者の中から甦らせたナザレ人イエス・キリストの御名に
よるのです。」と、臆せずに語ったからです。このように事実をはっきり語ったペテロの意図は、
「彼らが悔い改めて救われるため。」でした。ところが彼らは、ペテロの言葉を素直に受け止める
どころか反感を持ったのです。「自分たちは責められている。イエスの死の責任を押しつけられて
いる。」と考えたからです。この考えをその心に吹き込み、歪んだ思いを与えたのは悪魔です。
それというのも、エルサレムの民衆は、イエス様が十字架で息を引き取ったときに多くの奇跡を
見て、「もしやこの人が、本当にメシヤ・・・」という思いを持ちました。それは、墓が開いて
聖徒たちが甦り、神殿の幕が真っ二つに裂け、見張りをしていた百人隊長は、「まさに、この方は
神の子だった。」と証言せざるを得なかったからです。その上、癒された人が自分たちの目の前に
立っているのですから、ペテロの言葉に返す言葉もありませんでした。もし、自分たちの過ちと
責任から逃げようとせず、素直に悔い改める心があったなら、「なるほどそうだ。」と悔い改め、
神に立ち返ることが出来たでしょう。事実、信じて救われた者たちが男だけで5千人もいたの
です。ところが、大祭祀達は責任を取ることへの恐れの感情に捕われ、悪魔のささやきを受け
入れて歪んだ思いになってしまったのです。その結果、ペテロたちを迫害し、罪の上塗りをする
こととなったのです。このことからも分かるように、私たちの戦いは、血肉との戦いではなく、
私たちの背後にあって私たちを騙す悪魔との戦いだということが分かります。それと同じように、
私たちもこれまで悪魔に騙されて臆病風に吹かれ、福音を大胆に語る心を失ってきていたのです。
C この世には、神と悪魔がいます。悪魔の脅かしはいつもやってきます。だからこそ、祈りが
必要なのです。(29、30節)「聖書に書いてあることは今日も起こる。」のですから、
神の力を信じさせないように仕向ける悪魔を見抜き、「主よ。力を下さい。御言を大胆に語らせて
下さい。」と祈り、真理の中に歩んでいきましょう。 |