@ 今朝は、使徒行伝の学びを通して、主が、私たちの教会に与えられている計画(使命)は
何かを考え、私たちの働きが何かを確認したいと思います。
A さて、先週、一通の集会の案内が送られてきました。それは、以前私たちの教会に来たことの
ある姉妹からのものでした。私は、姉妹が体験してきた霊的な飢え渇きとその満たしに至った証を
読みました。私は、その証しに心が捉えられましたが、私たちの教会が求めてきたものとは、
その証の仕方において少々異なるものがありました。
B では、私たちに与えられている志、即ち、使命について考えてみましょう。
3節に、「イエスは、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに
示された。」とあります。また、マルコ16章20節には、「主は彼らとともに働き、みことばに
伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。これは、どちらも目に
見える証拠によって、みことばが真実であり、確かなものであることを証しているものです。
同じように、私たちがこれまで学んできた体の仕組みも、創り主の働かれた目に見える証拠です。
ところが、DNAに書き込まれた情報そのものは、非物質であり、目に見ることも、触れることも、
匂いを嗅ぐこともできないものです。しかしながら、この情報は、私たちの命そのものです。
たとえ精巧な体があっても、この情報がなければ、人間は生きていけません。それは、高価な
コンピューターと同じで、そこにプログラムが入っていなければ、ただの物体であるのと同じ
です。同じように福音も、目には見えませんが、DNAのプログラムと同じで、永遠の命そのもの
です。だから、イエス様が、「見ずして信じる者は幸いだ。」と言われたのです。
しかし、この福音を人に話すとき、力強く伝えれないのです。それは、人の目には見えないもの
だからです。ところが、案内をくれた姉妹からは、「見たから嬉しいんです。」という喜びが
伝わってきたのです。確かに、「救いとはこういうものだ。」と見えるものを提示できたら、
大胆な福音宣教ができるでしょう。様々な言葉をたくさん使っても、解ってもらえないものが、
もし、目に見える形で福音の性質が提示出来たら、多くの人に信じてもらえると思います。
使徒時代には、みことばに伴うしるしをもって、みことばが真実であると力強く伝えられていき
ました。私たちも、聖書に書いてあることは今日も起こることを信じていますから、目に見える
証拠をもって、主が死から甦られ生きておられることを証ししていきたいと思っています。
しかし、もしその賜物を持っても、私たちはそれを売り物にしたり、誇ったりはしたくありま
せん。なぜなら、それは知識と同様に、隠し味に過ぎません。
何故なら、福音は、イエス・キリストの十字架にありますから。私たちの教会に与えられた
使命は、「創造主の存在を証ししていく」と共に、「主に信頼すれば、主が成し遂げてくださる」
という信仰の証しです。この信仰のミッションこそが、私たちの教会設立当初からの使命であり、
この働きによって力を失い病んでいるクリスチャンを励ましていきたいと願っているからです。
しかしながら、教会の働きは、クリスチャンが皆同じでないように、それぞれの教会の使命も
違いますから、主は、それぞれの教会の証を用いておられるのです。ですから、いくら自分たちの
考えと違うからといって他の教会の働きを非難してはいけません。
C パウロは、異言や癒しを売り物にせず、十字架の福音の言葉を宣べ伝えていきました。
それが彼の使命だったからです。私たちは、どこまでも忍耐して信じて与えられるまで待つ
という、ジョージ・ミラーさんの信仰のイメージが与えられています。ですから、どこまでも
神の国とその義とを第一として、「主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」という信仰の
証しをしていきたいのです。これが私たちの教会の使命ですから、この使命の上に立って働きを
していきましょう。 |