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2003年4月27日 |
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「心を開き神に従う」 |
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マルコ10章17〜22節 |
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@ 私たちは今、「心を開く」ことの大切さと、その必要性を教えられています。 今日もそのことについて考えながら、違う角度から学んでみたいと思います。 A さて、「いつも心を開いて従うというのは、疲れる。」というのが私たちの正直な実感です。 いつも気を使い、とてもエネルギーがいるからです。というのは、心を開いて神に従う生き方は、 アダムが罪を犯す前は自然なことでしたが、罪を犯してからのアダムの子孫にとっては、自然では ないからです。しかし、心を閉じていては信仰を表す事は出来ません。神は、私たちがどこまでも 心を開き、自らの意志で神に従っていくことを願っておられるのです。 イエス様の所に永遠の命を求めてきた青年にも、主は、それを願われました。しかし彼は、顔を 曇らせ、悲しみながら立ち去る結果となってしまったのです。その原因は何んでしょうか? |
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B では、彼の心の動きを見ながら、主の求めておられるものは何かを考えてみたいと思います。 まず彼は、小さい時から戒めを守っているという自負心を持っていました。しかし、まだ何か不安な ものを感じていたようです。そこでイエス様の所に来て、ひざまずいて尋ねたのです。「尊い先生。 永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、何をしたらよいのでしょうか。」と。確かに、言い 回しはへりくだってはいますが、その心には、その自負心の故に傲慢な心がありました。もし開かれ た心で来たなら、単刀直入に「イエス様、永遠のいのちがほしいのです。与えてください。」と願って いたことでしょう。ところが彼は、戒めを全部守っているという自負がありましたので、主はその心を 見抜かれ、完全な神の義を要求されたのです。「あなたには、まだ欠けたことが一つあります。 帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。・・・そのうえで、わたしについ て来なさい。」と。その瞬間、彼は「ダメだ、出来ない。」と思い、心を閉じたのです。そして去って行き ました。それは、心を閉じた時には信仰が働きませんから、「出来ない」と思うと、自分の可能性だ けにしか目を留めず、イエス様にある可能性には目を向けれないからです。これと同じことを、 私たちは日々の日常生活の中で経験しているのです。しかし、考えてみて下さい。もし、私たちが、 自分たちの造った世界の中に生きているのなら、自分に出来ないと思ったら、「出来ない」と思う ことも仕方がないかもしれません。しかし、私たちは、神が創られた創造の世界に生きているので すから、自分に出来ないと思っても、神の可能性に目を向ければ、たとい出来ないと思ったとして も、心を開いて、「神様に頼ってやってみよう。」と思うはずです。そうすると、不可能も、可能になる のです。これは祈りも同じ事です。自分の方だけを見て、ダメだと思いながら祈っても、聞かれる はずがありません。神の可能性に目を向け、心の中で疑わず信じて祈る時、神のわざを味わうので す。心を開いていくとは、「ダメだ」と勝手に思い込まない事です。たとい「ダメだ」と思っても、心を 開いている人は、心を切り替えていきます。 |
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C 私たちクリスチャンは、神の前に生きるという新しい生き方を始めました。だから、心を開いて やろうとすることにエネルギーを使うべきです。出来ない、という中に逃げ込まないで、常に心を開く 意識を持って、神の助けを求めていきましょう。ダメだという自分勝手なハードルを、封印して行き ましょう。 |
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