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2003年10月19日 |
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「キリストの二面性」 |
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マタイ26章47〜56節 |
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@ 今朝は、キリストが十字架を目前とされたお言葉を通し、イエス・キリストはどのようなお方で あったのか考えてみたいと思います。 A さて、私たちは、イエス・キリストの中に、神の御子であられるにもかかわらず、神としての 強さと、人間的な弱さという二面性を見るのです。それは、十字架を目前にしたイエス様の姿と、十字 架上でのイエス様の言葉の中に表れています。 B では、この二面性について見てみましょう。まず神の御子としての力強さを覚えさせられる場面 があります。それは、イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダが、群衆を引き連れてイエス様を捕ら えようとしてやってきた時の事です。ペテロがイエス様を守ろうとして剣で、大祭司のしもべの耳 さや を切り落としました。その時イエス様は剣を鞘に納めなさいと言われ、「わたしが父にお願いして、 十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下においていただくことができないとでも思うので すか。」 と言われました。 十二軍団とは、七万二千人の事です。これだけ多くの御使いが遣わされた ら、イエス様に触れることはできません。ここに、人を恐れず、おじ惑うことのない堂々とした神の 御子の力強さを見ます。ところが一方では、十字架を目前にして、人間の弱さをそのまま表現される イエス様がおられるのです。逮捕される晩、ゲッセマネの園で祈られ、「わたしは悲しみのあまり死 ぬほどです。」と言われたのです。そればかりでなく、父なる神に「わが父よ。できますならば、この 杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と弱音を吐かれました。私たちは、神の子なのですから、 「そんなに弱気にならないでください。」と言いたくなります。また十字架上では、「わが神、わが神。 どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と、神への愚痴とも文句とも取れる言葉を吐かれま な した。これでは、神の御子と信じる私たちの心が萎えてしまいす。 ところが、メシヤはこのように叫ぶと、あらかじめ預言されていたのです。現実に神は、御子を見 捨てられました。それはなぜでしょう。人間の罪の贖いのためです。イエス様は、神の御子としての 権威と共に罪深い人間の肉の姿を取られました。それは人間の身代わりとなるためです。神の子が 罪深い肉のかたちを取って人間の罪を贖うためです。しかしその十字架の苦しみは、できることな ら過ぎ去らせて欲しい。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさっ てください。」と祈られたのです。神の御心に従って行こうとする一貫性を持っておられた御子のお 言葉です。ですからここに、罪のない神の御子でなければ人間の身代わりになることのできない、 イエス様の姿と言葉があったのです。 C キリストは、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、人間と同 じようになられたのです。 そうしなければ、人間の身代わりの代価となることができないからで す。ここにイエス様の、神のみ姿であられる方なのに、人間の姿をとられた二面性があったのです。 これこそ神の愛の現われです。もしこの贖いが無かったなら、私たちはユダのように、自分の罪の つ 始末のために、首を吊るだけだったでしょう。このキリストの十字架のことばの重みを知ってくだ さい。 |
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