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「あなた方が召された時のことを考えてみるがよい。 ・・・ この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で 身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、 あえて選ばれたのである。」 (Ⅰコリント1:26~28) 「創造主の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって 価なしに義とされるのである。」 (ローマ3:24) |
ですから、こんな罪人のままで、イエス様の贖いを信じる信仰だけで救われるということは、 何んとすごいことでしょう。 ところが、創造主を信じて救われたはずなのに、以前と少しも 変わらない自分の姿を見ると、愕然として、クリスチャンとして生きていく自信を失ってしまいます。 信じたのだから、イエス様に喜ばれる生き方もしたいし、又主の為に証しもしていきたいと 思います。 ところが、昔のままの弱い性格では、未信者時代より大変になってしまいます。 こんな自分が、クリスチャンとして生きて行こうと思うと、かえって、昔より高い基準の生き方を 求められ、「クリスチャンとして、やっていけない!」いくら、証したいと思っても、 「やっぱり行いを求められたら、私には出来ない!」 むしろ、 「信じたからといって強くなったわけでもないのに、弱い私に何が出来るの、 救われても前と同じじゃないの!」と。苦しみちゃんになってしまいます。 ![]() しかし、皆さん、クリスチャンは信じる前と信じた後では、同じではありません。 大きな違いがあります。 それは、「弱い私、取るに足りない私、能力のない私」が、 主の助けによって変えられていくからです。 すなわち、主を仰ぎ、主の助けを味わって、変えられた自分で、主に仕えていくか、主の助けを 求めず、弱いままの自分で世をはかなんでいくか、それは私たち自身が、主を仰ぐ心にかかっている のです。 もしクリスチャンが、本気で主の証しをしたいと願うなら、主に頼って行動を起こすでしょう。 すると、この世で一番弱い人間であったザアカイさんのように ![]() 「人にはできないことが、創造主にはできるのです。」 という変えられた自分に出会うでしょう。 この経験は、クリスチャン一人一人が、ただ主を信じ仰ぐ心があるか、 ないかにかかっているだけの問題です。弱さを持っているのはみな同じで、 当然のことです。全ての人が罪人ですから。 しかし、弱さを持つ人間であっても、新しく変えられていく人生のスタートラインに、 みな立っているのです。 ![]() もし、変えられた自分で、主に用いられたいと願うなら、強力に主の助けを求めて走り出していく はずです。そうすれば、自ずから私たちは、変えられていくのです。
パウロさんでも、自分は強いと思っていなかったのです。だから、ひたむきに前のものに向かって 進み、目標を目差して一心に走っていました。 私たちも、主に頼る人は、あきらめず自分の心に 命じ続ける努力をします。 すると、変えられた自分に出会うでしょう。 クリスチャンの特権は、弱い人間でも、主の助けによって、出来るということです。 ![]()
クリスチャンの価値は信仰にある 確かに、信じる前の自分と、信じた後の自分の姿に、少しも変わらない自分を見出すでしょう。 しかし、信じるということは、主を仰ぎ信頼するということです。ですから、弱くても主の約束を信じて、 主の助けを受け取っていくならば、弱かった私たちが、主の導きによって、 「こんなこともできるようになった」という自分を発見していくことでしょう。 そして、主を仰ぎ続ける心があれば、パウロさんのように、 ![]() ![]() という生き方が出来るのです。 せっかく、イエス様に救われたのですから、昔のままの苦しみちゃんではなく、 前のものに向かって懸命に努力する、新しい自分に変えられたいものです。 ここにクリスチャンの価値があるのですから、 主の助けによって体験する勝利の感動を是非味わっていきましょう。 そのためには、あきらめずに、自分の心に命じる努力をしていきましょう。
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