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   万物             
            
         弱い私に、なぜ行いが求められるの!   

弱い私に、なぜ行いが求められるの!

女性のかぶり物について、コリントのみことばに示されています。

これは、みことばに示された信仰の行為として勧められているものです。しかし、今日、全ての

教会で女性がかぶり物をしているわけではありません。そこで、「聖書はどのように教えているのか」、

考えてみたいと思います。

        
                    女が長い髪をしていたら、それは女の光栄である。

             なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。 

                                              �Tコリント11章15節

という部分だけ読めば、「長い髪を持っていれば、かぶり物と同じだからそれでいいのではないか。」と、

受け取ることもできます。しかし、
          
 「女がかぶり物を着けずに祈るということは

  それは髪をそっているのと同じことです。」 (�Tコリント11章5節)

   
 ともあります。
  
  
   また、 「女がかぶり物を着けないのなら、髪を切ってしまいなさい。

  髪を切り、頭をそることが女としてはずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。」 

                                         (�Tコリント11章6節)

 とあります。それは、ただ、長い髪があればよいということではないと推察されます。

かぶり物を着けないのなら、長い髪でさえ、切ってしまえと言われています。



弱い私に、なぜ行いが求められるの!
 
注解書を調べると、「コリントの局地的な習慣で、局地的な問題として取り上げられたものです。」

とあります。 しかし、コリントだけの局地的なことであると聖書に書いてあるでしょうか。

むしろ逆です。  16節には

  
 「たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちには
     
          そのような習慣はないし、創造主の諸教会にもありません。」

    とあります。これは、コリントの教会だけではなく、当時の諸教会では、

女性がかぶり物をかぶらないという習慣はなく、それに異議を唱える人がいても、その異議は

諸教会では認められていない。と言っているのですから、これは、局地的な習慣だとは言えません。

ということは、もっと真剣にこのことを考えていく必要があると思います。

 では、かぶり物に関する御言葉に、目を向けていきたいと思います。


 弱い私に、なぜ行いが求められるの!     

 創造主は仰せられた。


「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

  彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地をはう全てのものを支配するように。 

  創造主は人をご自身のかたちとして創造された。     − 創世記1章26〜27節 ー

 創造主であるヤハウェは仰せられた。

「人が、ひとりでいるのは良くない。 わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

                                              − 創世記2章18節 ー  絶対主訳聖書より


  はじめに創造主は、全ての生きものを支配させるために、人(アダム)を造ろうと考えられました。

(創世記1:26) そして、人は、被造物の支配者として立てられました。

又、創造主は「人がひとりでいるのはよくない」と言われ、彼にふさわしい助けとして、

女を創られました。それが、アダムの助け手として造られたエバです。(創世記2:18)

 この時、女は、アダムのあばら骨を取って造られ、男と同じかたちを持って造られたのですが、

アダムの「あばら骨」から造られたので、女はコピーです。 けれども、男は創造主に似せて造られた

オリジナルです。男というのは、全ての被造物を支配していく立場にあります。(創世記1:26)

しかし、女は、男に従い属する(従属する)助け手として造られました。
 
    ですから、「女は、支配したり治めたりすることが目的ではなく、
                         

だからといって、男尊女卑という考え方は間違っています。ですが、同権ではありません。

そのように秩序を持って造ったのは創造主です。ですから、男は、正しく治めていく義務があり、

女は正しく助けていかなければならない義務があります。
 
                この、
「女は、支配したり治めたりすることが目的ではなく、
                         

弱い私に、なぜ行いが求められるの!

 そこで、パウロが新約の教会に対して語っている、かぶり物の問題は、男女の秩序の問題として

取り上げているのです。

 
   男はかぶり物を着けるべきではありません。

  男は創造主の似姿であり、創造主の栄光の現われだからです。

  女は男の栄光の現れです。なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、

  女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、

  女が男のために造られたのだからです。ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべき

  です。それは、御使いたちのためにです。�Tコリント11章7〜10節  
-絶対主訳聖書より-


  とあります。
   
  この『権威のしるし』とはどういう意味でしょうか。

「女は、男の栄光の現れ」とありますから、「女は正々堂々と、栄光を現した方がいいのではないか?

帽子をかぶって栄光を覆ってしまうのは、おかしいのではないか?」と思われますが、違います。

女は、男の栄光の現れであって、女自身に栄光があるわけではないのです。

すなわち、女は栄光を持っていません。 これはどういう意味かと言いますと、聖書に

 「男は、女のかしらです」とあっても、「女は、御使いのかしらです」とは記されていません。

すなわち、 女は他者に対するかしらの立場にはないのです。
 
  だから、女は自分の栄光を現すべきではないのです。  これは、女に権威はないということです。

だから、女は権威に服しているということを現すために、帽子をかぶるのです。

これが「女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。」という意味です。しかも、それは御使いたちも

見ている、へりくだりの行為のためにです。 (�Tコリント11章10節)


創造主は、創造の秩序として、そのようになさったのですから、女はそのことを自覚し、

意識するために帽子をかぶって、自分の栄光を現さないのです。


弱い私に、なぜ行いが求められるの!

 女性は、助け手として従っていくという本能が備わっています。

栄光を現すことは、男に任せておけばいいのです。男は創造主の似姿ですから、

創造主の栄光を現していく仕事をしなければなりません。


  
 アブラハム、ヤコブ、イサク、ヨセフ、モーセ・・・。 みんな創造主の栄光を現していく仕事

をしてきました。その仕事が大変なことは事実です。

しかし、男はしんどいからといって逃げていてはいけません。 男は弱音を吐くこともできません。

しかし、女も「私の方が男よりも頭もいいし、能力もある。なのに、なぜ女だからといって男に

従わなければいけないの。」と言ってはいけません。男の助け手として造られたのは、

創造主から与えられた使命
だからです。その使命に、「はい。わかりました。」と答えていくのが

私たちの生き方です。できるか、できないかではなく、私たちがどのような立場に立たされているのか、

ということが大切な真理なのです。


                    創造主は、
 
             
         女は男の栄光の現れであり、
         
               助け手として従っていきなさい。

              
         と言われました。そして、
 
 
      「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。
    
           ただ、静かにしていなさい。」       (�Tテモテ2章12節)


 それならば、素直に「わかりました。」と言って、権威に服している証しとして心から帽子もかぶって

行くべきです。 それは、人に対してどうのこうのではなく、御使いも、天から見ていることですから。




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