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2025年8月10日

イエス様の命のパンを頂いた者として、
永遠に命のパンを食べ続け、永遠に生きて行く事

ヨハネの福音書 6:57、8:1~11 


(起) ヨハネ6章57節「わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしに

よって
生きるのです」という御言葉と、ヨハネ8章の姦淫の女の記事から、「イエス様の命のパンを

頂いた者として、永遠にイエス様の命のパンを食べ続け、永遠に生きて()く事」
を学びたいと

思います。


(承)さて、先週は、肺の仕組みについて学びました。肺の仕組みは、1/1000mmというミクロの

世界で出来上がって
おり、両肺にある6億個の肺胞は直径1/10mm
~2/10mmであり、その一つ一つの肺胞に

1/100mm
の毛細血管が張り付いてガス交換を行っています。肺胞と毛細血管の間には膜があり、

その膜の厚さは1/10000
mm~7/10000mmです。こんなミクロの世界で繊細な仕組みが出来上がっている

という事自体がすごい事であり、どう考えても人間の(わざ)で出来上がる代物(しろもの)ではありません。

これは、サムシング・グレイトと云われる、私達よりも(はる)かに偉大で、力を持った全能主という

御方の存在がなければ、出来上がらない代物(しろもの)です。この事を知ると、私たちが生きているのは

当たり前ではなく、全能主の手によって精密に創り上げられたものであり、メンテナンスも全て

考えられた上で、生かされているということが見えてきます。ですから、私達の命は、このサムシング

・グレイトという、全能主に対して(もち)いて行く為の命だ、というのが当然の道理なのです。

決して自分が、命の所有者ではありません。


(転)さて、それなのに、私達は生まれながらに自分勝手で、創造主に「創られた」という意識を

全く持たず、自分の命は自分のものとして自由に使い、自分の思い通りに生きて来ました。その

結果として、自分の思い通りに()って来た一つ一つの悪の事柄は、全て自分に跳ね返って来るの

です。即ち、
私達の命を創られたお方から裁かれるという事です。ところが、本来ならば私たちが

裁かれるところを、イエス様は「命のパン」を
私たちに与えるために、イエス様ご自身が自分の命を

裂いて、私たちの罪の身代わりとなって裁きを受けて
下さいましたこの奇跡によって、この主の

贖いを信じて受け取った者は、自分の数々の罪過(ざいか)に対して、永遠の赦しが与えられ、「永遠の命の

パン」を頂いて生きて行ける者として下さったのです。
これが、「天から下って来た命のパン」を

食べる人について宣言されている事柄です。その「命のパンを食べ続ける人は、決して
死ぬ事は

ありません」(ヨハネ6:50)と、イエス様が宣言されました。この事は、アシュケナジー自称

ユダヤ人
(ユダヤ教に勝手に改宗した異邦人)には、当然理解出来ないことでしたので、イエス様を

十字架に付けたのです。ですから、自称ユダヤ人(黙3:3)は、「悪魔から出たユダヤ人だ」とイエス様

から断罪されているのです
しかし、一方では、本気で信じて、イエス様の命のパンを食べた「姦淫の

女」
「生まれながらの盲人」は、
イエス様によって永遠の命の中に入れられました。(6:57)。

そうであるならば、私達も同じようにイエス様の
命のパンを頂き、そのパンを食べ続け
て行くならば、

イエス様によって永遠に生きるのです。それは、
もう自分の先入観、自分の頭の考え、地上の価値観で

物事を見て行くのではなく、イエス様の考え方、天的な物の見方を
して、生きて行くのです。御霊は

それを私達に教えてくれます。だから、イエス様の救いに与っている者は、
命のパンを食べ続け、

イエス様の考え方に心を切り替え、イエス様に在っていつも生きて行くのです
。この真理の上に

立った者は、「イエス様の物の考え方、天的な物の見方とはどういうものか」という事を、ヨハネ
8章の

姦淫の女の記事から学ぶ事が出来ます。それを見て行きますと、律法学者、パリサイ人達が、姦淫の

現場で捕えられた女をイエス様の所に連れて来て、「モーセの律法では、こういう者に石を投げつけて

殺せと命じて
いますが、あなたはどう思われますか」と言って、イエス様に詰め寄りました。そこで

イエス様は、「『姦淫の罪を
犯した者は、モーセの律法に従って石打ちにするべきだ』というのが、

あなた方の考えでしょう。しかし、わたしは
言います。『あなた方の中で罪のない者が、まず最初に、

この女に石を投げ付けなさい』
」と言われました。すると、そこにいた全ての者が、良心に責められ

ながら去って行ったのです。この姦淫の女の出来事を通して
女を捕えて連れてきた律法学者、パリサイ

人達は、表面的には「自分は良心を責められない生き方をして来た
と勝手に思っている者達でしたが、

彼らの心の中にある罪を(とが)められると、その(とが)めが彼らの心の責めとなって一人一人が去って

行き、そして、女だけがそこに残されました。本来なら、罪のないイエス様は、この女を
裁かな

ければなりませんが、イエス様は「わたしもあなたを罪に定めません」と言われて赦されたのです


それは
主の贖いを根拠に宣言された救いの言葉です。これはなんと有り難い言葉でしょうか。私達も、

このイエス様の
救いに(あずか)った者です。
アオリストの救いとは、こういうものです。即ち、この世の

常識、世的な判断ではなく、
天的な判断で扱われるという事です。ならば私達も、もうこの世の常識や

地上的な価値観で物事を見るのではなく、イエス様の考え方を聖書から学び、判断していくのです。それは

地上の見方とは全く違うところにあるから
です。ですから、私達はイエス様の命のパンを頂いた者

として、このイエス様の考え方、天的な物の見方で生きて行かなければなりません。

(結)このように、私達が受けた取り扱いは、姦淫の女と同じです。即ち、イエス様の「永遠の

命のパン」を
食べていく者として、自分たちの価値観を切り替えて、イエス様の考え方の中で生きて

行く者とされたのです。ですから、イエス様の命のパン(生ける御霊)を頂き、それを食べ続けて、

生きて行くのです。その事ができる立場を頂いたのですから、その霊的判断の中で、イエス様に

よって生きて行きましょう。いつも地上の損得の色眼鏡で物事を見て、自分の判断が正しいと思って

いると、大きな間違いを犯してしまいます。どうか、イエス様の命のパンを頂いた者として、自分を

根拠にするのではなく、イエス様を根拠にして、イエス様の考え方、天的な物の見方をして、生きて

行こうではありませんか。


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