教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2025年6月8日

我を砕き、全能主の言葉をそのまま素直に受け止めて、
信頼して従って行く事

ヤコブの手紙4:13~17、ガラテヤ人への手紙3:12 


(起) ヤコブ4章13~17節、ガラテヤ3章12節の御言葉から、「我を砕き、全能主の言葉を

そのまま素直に受け留めて、信頼して従って行く事」
を学びたいと思います。


(承)さて、今日はまず心臓の仕組みについて見て行きます。心臓は、私達が生きて行く上で大切な

働きをしている臓器の一つです。心臓は大きく分けて4つの部屋に分かれており、全身から返って来た

血液はまず右心房に入り、右心室を経て肺に送り出されます。肺で酸素をもらった血液は左心房に入り、

左心室から全身に送り出されます。ところが、赤ちゃんの心臓は大人の心臓と同じではありません。

赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいるため、肺呼吸をしていません。ですから、大人と同じように

たくさんの血液が肺の方に行ってしまうと、圧力で肺が爆発してしまいます。では、「赤ちゃんの

血液の流れはどうなっているか」と言いますと、まずお母さんの胎盤を通して、おへそから綺麗な

血液(酸素、栄養)をもらい、その血液が下半身の方から心臓にやって来る静脈と合流して、右心房に

戻ってきます。そして、卵円孔という穴を通って右心房から左心房に直接血液が流れ込み、体全体に

送り出すというシステムになっています。即ち、赤ちゃんの心臓には特別に穴が開いていて、肺へ

血液が行かないようになっているのです。また、頭の方から心臓に戻って来た汚れた血液も、肺の方に

行かないように、そのための管(ボタロ氏管)が赤ちゃんには特別についています。そして、生まれて

きて「オギャー」と泣くと、肺に空気が入り、肺の血管も膨らんで、肺に血液が行くようになります。

すると、卵円孔とボタロ氏管は瞬間的に塞がれ、生まれて2分以内に、血液の流れは成人と同じ流れに

変わります。この情報が遺伝子に組み込まれなければ、生きた赤ん坊は生まれません。赤ちゃんが、

お母さんのお腹の中で育ち、生まれてくるためには、このような特別な仕組みを持った心臓でなければ、

育たないのです。単純に、細胞が増えれば人間の体が出来上がるという訳にはいきません。その過程で

起こってくる全ての問題について、「この場合にはどうするのか」という事を考えた上での設計図が

必要だからです。それは、偉大な智恵と力に富んだ「サムシング・グレート」と言われる「全能主」

いなければ完成しません。ということは、人間が命を持って生まれ出てくるためには、試行錯誤の

偶然の繰り返しでは、生まれ出ることは出来ないのです。ですから、私達が命を持っているからと

言って、絶対に威張れないという事です。ゆえに、私達は、命を組み立てられた全能主に逆らって

生きて行く事は決してできません。


(転)ところが、人間は「オギャー」と生まれた時から、自分の命は自分のものだと思い、自分の考え

通りに生きて行けると思っています。しかし、私たちの命は自分が創った自分の所有物ではないの

です
。ですから、ルカ12章20節にあるように「愚か者よ。あなたの魂は今夜取り去られる。

そうしたら、あなたの用意した物は、誰の物になるのか。」
と言われてしまうのです。このように、

「今日か明日、これこれの町へ行き、商売をして一儲(ひともう)けしよう」(ヤコブ4:14)という

身勝手な考えは、通用しません。私達には、明日の事さえも分からないからです。この自然界は、

人間の命も含めて、全て全能主が創った全能主の所有物です。
ならば、私達は自分の考えで生きて

行こうとしてはいけません。私達は「主がよしとされるならば、生きながらえて、あの事を、この事を

しよう」と言うべきです。ですから、自分の我を砕き、天地万物の創造主の前に遜るべきです。

その為に、まず自分にとって、嫌だと思う事も、できないと思う事も、「もし全能主がそうしなさい」

と言われたなら、素直に従って行く心を持つべきです。
それが信仰なのです。ですから、自分の考えを

大事にし、「これはできません」、「これはやります」という判断をしていては、本当に全能主を信じた

事にはなりません。いくら教会で信じる信仰の心を学んでいてもこの世の仕事に戻った時には

自分の肉の判断が当たり前のようになりこの地上の価値観と信仰との両刀(づか)いとなって、二心の

偽善者になってしまうのです。
そんな損得の仕事をしていたら、自分がおかしくなります。それは、

信仰とこの世の生き方を別物と見ていることになります。
クリスチャンが信じた信仰のあり方は、

今の世と後の世との、永遠の世界で生きて行く信仰を現して行くものです。
ですから、私たちの

信仰は、まず地上の現場で現して行くことが、全能主が望んでおられる生き方なのです。ですから、

世に出て行っても、全能主を信じた生き方を、自分の全てを懸けて現して行くのです。
即ち、
自分が

できないと思う事も、嫌な事も、損をする事
であっても、「全能主の御心なら、信じてやります」

という素直な心を持ってやって行くべきです。
なぜなら、全能主に受け入れられた人は、信仰によって

生きるからです(ガラテヤ3:3)。
このように、全能主を信じ、全能主の救いに(あずか)った人は、

この地上にあって、どこまでも全能主を信頼し、全能主の考えに素直に従って行くのです。

(結)どうか、この生き方をゼロからスタートして下さい。私達は100%罪人ですから、自分の

考えが100%正しい訳ではありません。だから、
自分の考え、自分の我、自分の肉の判断を折って、

全能主の判断で生きて行くのです。
それを実行しなければ、私達の信仰は虚しいものになります。

「イエス・キリストを信じれば、永遠の命を持つ」という約束は、キリストを信じ、キリストを遣わして

下さった全能主を信じた生き方をした者に与えられる約束です。
しかし、自分を信じ、自分の肉の感情を

大事にする者は、「ただ教会で学んでいる」という飾りをつけているだけで、終ってしまいます。


ですから、全能主の約束は実現しません。もし全能主を信じていると言うなら、「全能主に受け入れ

られた人は信仰によって生きる」(ガラテヤ3:11)
とある御言葉通り、
我を砕き全能主の言葉を

そのまま素直に受け留めて、信頼して従って行く実践をして行きましょう。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室