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2025年4月27日

「優位に立ちたい、認めて欲しい」という我を折り、
主に信頼し、主が成し遂げてくださるという
信仰の醍醐味を味わう

第Ⅰサムエル記13:8~15、マルコの福音書10:46~52


(起) 第Ⅰサムエル13章8節から、「サウル王が戦いのために勝手に生け贄を捧げた事」と、

マルコ伝10章の「盲人バルテマイの癒し」の記事から、「自分が優位に立ちたい」、「自分の存在を

認めてほしい」
という我を折り、素直に主に信頼し「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」という

信仰の醍醐味を味わい、信じる信仰を証して行く事を学んで行きたいと思います。


(承)さて、旧約時代のイスラエルの民は、全能主が直接彼らを治めておられました。ところが、

イスラエルの長老たちがサムエルの所に来て、「他の国々のように、自分達も王によって守ってほしい」

と進言した為、全能主は仕方なく、サウルをイスラエルの王として立てられました。そして、人間に

よる人政政治が王によってなされて行きました。そんな中で、その王による戦いが、13章から出てき

ます。サウル王は、ペリシテ人との戦いのために、イスラエルから3千人を選びました。その内2千人は

サウルと共にミクマスに陣を張り、千人は息子のヨナタンに預けていました。ところが、敵のペリシテ

人の人数は、戦車が3万、騎兵が6千、それに海辺の砂のように多い兵たちが、戦いのために備え

ました。イスラエル人達は、その人数を見ただけで敗北感を感じ、ほら穴や岩間、地下室などに隠れて

しまったのです。そこで、サウルは全能主に生け贄を捧げ、全能主からの指示を仰いで、戦いに行きたい

と考ました。ところが、生け贄を捧げることに関しては、「全焼の生け贄を勝手気ままな場所で捧げては

いけない。」(申命記12:13)
と、厳しく戒められていたのです。しかし、サウル王は禁を破り、

預言者サムエルが来るのを待てずに、勝手気ままな場所で生け贄を捧げてしまいました。サウルは、

どうしても戦いに勝って、王としての面子を保ちたかったのです。しかし、全能主の命に背き、自分の

勝手な判断で事を行ってしまったところへ、サムエルがやって来ました。そして、サウル王に言い

ました。「あなたは、なんと愚かな事をしたものだ。あなたはヤハウェの命じられた事を守らなかった

ので、ヤハウェは、ご自分の心にかなう人を、ご自分の民の君主に任命しておられる。」(Ⅰサムエル

13:13~14)
と非難され、サウル王は退けられてしまったのです。なぜなら、サウルは自分の面子を

捨てる事ができず
「主を信じて従う心」を持てなかった為に、全能主から信頼を失ったのです。


(転)では、次に新約聖書を見て行きますと、マルコ伝10章46節から出てくる「バルテマイという

盲人」は、自分の面子を捨て、主を信じる信仰の故にイエス様に受け入れられ、盲目であった目を

開けて頂いた者です。
ここに、両者の違いがハッキリ現れています。盲人のバルテマイは「行きな

さい。あなたの信じ仰ぐ心があなたを救ったのです」
と言われて癒やされました。しかし、他方、

サウル王に対しては「あなたは、ヤハウェの命じられた事を守らなかった」と言われて退けられたの

です。この両者の違いは、全て、主に信頼するか、しないかどうかに掛かっており、信頼すれば、

主が事を成し遂げて下さり、信頼しなければ、全て人間の力次第になってしまいます
。バルテマイは

生まれつき盲人でしたから、初めから自分の力で事を行うことは出来ませんでした。ですから、

全面的に主に信頼する事だけが、彼の出来る事でした。ところが、サウル王は、王の面子(めんつ)で事を

行わなければならず、(あせ)って結果を出そうとして、全能主の信頼を失う結果と成り、すべての

ことが、自分の肩に掛かってしまったのです。これほどの違いは、目には見えませんが、「自分で結果を

出そうとすれば、負いきれなくなってしまう」ということです。即ち、「自分をいつも優位に保って

いないと生きていけない」という(つら)いプレッシャーが肩に()()かり、人間の心の奥に

(ひそ)
む魔物の声に悩まされるのです。これが自我です。
こんな中で、全てを自分で負わずに、

主に任せきれる者とされたら、どんなに楽でしょうか。
この盲人のバルテマイは、生まれた時から

ハンデーの中に置かれ、自己嫌悪と自己卑下の中にありました。ですから、自分ではどうにもならない

中で、「イエス様なら助けて下さる。癒して下さる」と、イエス様に最後の望みを抱いたのです。

そして、その心でイエス様に近づき、「私を憐れんで下さい。癒して下さい」と叫びました。すると、

イエス様は「行きなさい。あなたの信じ仰ぐ心があなたを救ったのです」と、思いがけない言葉が

返ってきたのです。すると、(たちま)ち見えるようになり、「本気でイエス様に頼ろうとした心を、

イエス様は無条件で受け留めて下さった」
と驚き、喜び踊ったのです。これが事実なら、この方に

最後まで、おごらずに信頼し続けて行く心を持って生涯を終えることが出来たら、どんなに(すご)

人生になることでしょうか。
盲人のような、主への信頼の心は、どこから出たのでしょうか。それは、

ただ、幼子のように「心の低い者」となり、下手に出て「主に叫んだだけです。」これは、ただ肉の

我を折るだけのことでした。それは、人から求められてした事ではなく、自分で「折る」と決めてした

事です。人から求められてする場合、自分の心から出た決め事ではないので、心に(とど)まりません。

全ては、自分の心から出た決断でないと、自分のものにはならないのです
なぜなら、「ただ、

御免
(ごめん)
なさい」と口で言うだけでは、「早く、相手から受け入れられたい」とか「相手の圧力から

解放されたい」という打算(ださん)が入っているからです。しかし、「自分の我を折った後」では、

人から求められた場合でも、素直に心の中に入ってきます。それは、「自分を守りたい」という我から

解放されているからです。全ては、「無条件に自分が悪かったのです」と認めた時、自分を守ろうとする

気持ちや、「自分が優位に立って、相手に勝ちたい」という無意味な競争心から解放されるのです。

それが、我を折った結果です。
その結果として「主に信頼して行こう」という素直な心が出てくるように

なるのです。私達がその素直な心を持てるのは、蛇に(まど)わされて、全能主から自律したいという、

エバの思い上がりの罪が折られるからです。
即ち、この思い上がりの罪は、「私達が生まれた時から、

今に至るまで、ずっと心の奥に温存して来た自我」であったのです。ですから、その解放によって、

エバが蛇に(だま)される以前にあった、全能主との素直な関係に立ち戻れるのです。そこに立ち戻った

者を、全能主はご自分の(ふところ)に集めたいのです。
だから、私達はその肉の自我を折るのです。

(結)どうか、もう(いき)がらないで、我を折りましょう。すると、盲人のように「主に信頼して

行こう」という素直な心が生まれ、その信仰が生きてきます。どうか、素直に主に信頼して行く心に

立ち戻り、「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」という幸いな約束を、この地上で味わい、

証しさせて頂こうではありませんか。


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