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2025年4月20日

自分を優位に保とうとする自我を折り、
全能主のお考えに合わせていく』

マルコの福音書 7:24~30


(起) マルコ伝7章のツロの女の記事から、「私達の命は全能主に生かされている命ですから、自分を

優位に保とうとする自我を折って、
主人である全能主のお考えに合わせて行く事」を学びたいと思います。


(承)て、ツロの女は、イエス様の事を聞きつけて、「自分の娘から悪霊を追い出して下さるように」と

願いました。ところが、イエス様は冷たく反応され、「まず子どもたちを満腹させなければなりません。

子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは、良くない事です」
と拒否されました。しかし、

それでも彼女は気を取り戻して、肉の反発を折り「主よ。お言葉通りです」と受け止めました
。すると、

彼女の腹立ちが消え下手に出て「でも、食卓の下にいる子犬たちでも、子どもたちのパン屑は頂きます」

と率直に願い求めたのです。このような彼女のへりくだりに対し、イエス様は「あなたのその言葉通り、

家に帰りなさい。悪霊はもうあなたの娘から出て行きましたから」と、彼女の願いを受け止められたの

です。それは何故でしょうか。イエス様の目から見れば、「子どもたち」というのは「イスラエルの民」

のことであり、そのイスラエルの救い主として来られたのですから、異邦人はユダヤ人の救い主とは

関わりが無く、目に留められていなかったのです。このような中で、彼女は「無関係な者が、横入りすれば

聞かれない」ということを承知の上で、娘可愛(かわい)さで、なりふり構わず主にひれ伏し、「でも、食卓の

下にいる子犬たちでも、子どもたちのパン屑は頂きます」
と言ったのです。それは、「イエス様の言葉を

そのまま受け留め、自分の肉の我を折った」という事です。その上で、下手に出て「でも、主人の食卓から

落ちるパンくずは、小犬も頂けるのではないでしょうか」
という言い方をしたのです。これはなかなか

言える事ではありません
何故なら、人間は心の奥に、強い肉の我を持っているからです。普通、一度

イエス様から否定されたら、その祈りは()()けられるだけだと思い、その場から引き下がります。

なぜなら、人間は、自分の面子が潰されることを嫌がり、退けられる事を一番嫌うからです。それは、

人間の肉にはプライドがあり「常に自分を優位に保ち、自分の思い通りに生きて行きたい」という「我」

あるからです。その我は、人に傷付けられたくないものです。即ち、「自分の命は自分のものだから、

自分の尊厳を守り
、自分の思い通りにしたい」という強い肉の面子、誇りを捨て切れないからです。


(転)ところが、それは間違っています。私達は自分の命を自分で造ったわけではありません。また、

自分の力で生きているのではありません。現在、私達が住んでいる地球上には、「エントロピーの法則」

というものがあります。それは、「全てのエネルギーは高い方から低い方に流れて行く」という法則です。

ところが、進化論というのは、低い方から高い方にエネルギーが向かって行くという考え方です。猿から

人間になる場合、猿よりも人間の方が仕組みは繊細(せんさい)ですから、低い方から高い方に変わって行く事に

なるのです。それは、自然界の中にある法則に反します。物を自然界の中に放っておけばエネルギーは

失われ、いずれ腐って行くだけです。自然という無機物が、勝手にエネルギーを与え、どんどん高価な

ものに変えて行く事はありません。ですから、私達人間は、勝手に何もないところからエネルギーを得て、

ここまで高度な仕組みを持ったのではありません。「人間が生きて行ける状態で存在した」という事は、

サムシング・グレイト(知恵ある偉大な何者か)が存在しなければ、成り立たないことです。即ち、誰かが、

初めにエネルギーを注入して、そこに置かなければ、命は存在しないのです
偶然の積み重ねという意志の

ないもの
が存在させる事はあり得ません。即ち、そこには創り主がおられたという、動かない事実があるの

です。
それが、サムシング・グレイトという全能主です。全能主が私達を造り、私達が生きて行く事が

できるように、環境も全て整えて下さった中で、生きる命を与えて下さったのです。その御方がいなければ、

私達の存在はあり得ません。人間には知恵があると言っても、その知恵を使って人間の命を生み出す事が

出来るでしょうか?逆に、人間は死を止めることが出来るでしょうか?不可能です。それは、私達が自分の

命を創ったのではないからですこの故に、結論として私たちの命は、私たちが創ったものではありません。

ですから、私達は、自分の我を折るのです。


(結)私達は、今まで「自分の命は自分のものだと思っていたので、自分の思い通りに生きて行こう」と

してきました。ですから、自分の立場を優位に保とうとしてきたのです。しかし、私達の命を創って

下さった全能主がおられる事を知った以上、「自分が主権者として優位に保ち、自分の思い通りに生きて

行きたい」
という自我は折るべきです。そして、全能主と結びつき、全能主のお考えに合わせて行かなければ

なりません
。即ち、ツロの女のように、どこまでも遜って主人の考えに合わせて行こうとする事です。

それが造られた者の姿勢であり、従う者の姿勢です。どうか、この世の常識ではなく、私達の命の主人

である全能主の考えに合わせて行きましょう。全能主の常識は、「全能主の国と全能主の義をまず第一に

求めなさい」という事です。どうか、自分の「我」を折って、主人である全能主のお考えに合わせて生きて

行きましょう。そして、この真実を宣べ伝えて行こうではありませんか。


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