2025年12月14日
『主に委ね、信頼し、主が成し遂げてくださるという信仰を 勇気を持って始め出し、全能主の栄光を表していく教会となる』
ピリピ4:6~7、エペソ3:20~21
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(起) 「主に委ね、主に信頼し、主が成し遂げて下さる」(詩篇37篇5節)という信仰の歩みを、
勇気をもって始め出し、「全能主の栄光を表して行く教会となる事」を学びたいと思います。
まず、創造主の存在を、「酸素の運搬に特化して設計された赤血球」から紐解いていきます。
赤血球は、人体を構成する約40兆の細胞に酸素を送り届ける役割があります。その為、酸素を効率よく
取り込むための最適な形状と構造をしています。形状は、表面積が最大となるようにドーナツ形をし、
その中心部分は穴あきではなく、両面が凹んでいます。この形状は、コンピュータで表面積を
最大化するために計算した最適な解と全く同じなのです。次に、構造は、赤血球の直径よりも小さい
毛細血管を通らねばならないため、細長く変形できるようになっています。その変形をする為に、
赤血球の特徴として、細胞が成熟する過程で核などの小体器官が排除され、濃厚なヘモグロビン溶液で
満たされます。すると、細胞全体に弾力が生まれ、柔軟に変形するのに最適な構造となるのです。
結果、直径が約7ミクロン(7/1000mm)の赤血球が、5ミクロン(5/1000mm)の
毛細血管を通過できるほどに変形できるのです。これらの仕組みが、偶然に仕組まれたと考えるのは、
余りにも短絡的な発想です。むしろ、機能を最適化する為に意図的に考えられ、形造られて
いると考える方が合理的です。聖書は、その事を的確に表現しています。「全能主は御旨のままに
器官をそれぞれ体に備えられた」(Ⅰコリント12:18)。つまり、全能主であるヤハウェが
叡智を以て、目的に従って各器官を設計し、人間が生きる為に最適な仕組みを造り上げ
られたのです。また、「全能主は大いなることを行って測り知れず、その奇しい御業は数えきれ
ない。」(ヨブ記9:10)とあるように、人体のあらゆる所に、全能主の大いなる仕組みが施され、
身体全体に叡智の仕組みが発見されるのです。これは、決して偶然の結果ではありませんので、
「叡智に富んだ全能主の存在」が、明瞭に認められる事項なのです。
(承)さて、この全能主を知ったクリスチャンは、全能主に対して祈る事ができるのです。それは、
ピリピ4章6節にあるように「何事も思い煩ってはなりません。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと
願いをささげ、あなた方の求めるところを全能主に申し上げなさい」という祈りです。私達は、これまで
何度も全能主に祈って来ていますが、正直なところ、「祈ってもダメかもしれない」という思いを
持ちながら、祈って来た事でしょう。ところが、「感謝をもって祈る」という事は、「たとえ悲しい
ときでも、感謝な気持ちに切り替えて祈る」という事です。なぜなら、「何事も思い煩っては
ならない」からです。それが「御霊による祈り」です。御霊による祈りは、全能主に信頼する思いが
当たり前の心になって祈ります。それが悲しい時でも、全能主は全てのことを知っていて下さるの
ですから、主に重荷を下ろすのです。私達の祈りは、いつも自分の領域の範囲の中で祈ります。
しかし、「全能主は大いなることを行って測り知れず、その奇しい御業は数えきれない」御方
ですから、全能主は「私達の求めるところ、また人の思うところよりも、遙かに超えて成し遂げて
下さる全能主なのです。」その為には、祈る前に自分の我を引き、主に委ねる心を以て、全能主の
主権を認めた上で祈るならば、祈った後に平安があり、「人知ではとうてい測り知る事のできない
全能主の平安」(ピリピ4:7)が、私達の心を覆うのです。
(転)では、主に祈る時に「人知ではとうてい測り知る事のできない全能主の平安」を味わって行く
ために、必要な事は何でしょうか。それは、御言葉の最初に書いてある通り、思い煩わない事が
ポイントです。「思い煩わない」という事は、「心配しない」という事ですが、「心配するな!信じて
行け!」と言われても、いわゆる心配性の人は、その人の肉の中にこびりついている性質ですから、
すぐに心配してしまうのです。では、どうしたら良いのかと言いますと、私達の信仰の勇気で、「主に
委ねて行く心」に敢えて変えることです。そして、委ねたなら「次は信頼する心」を抱くのです。
その次に委ねて信頼したら、「その事はもう考えないこと」です。これを信頼する勇気を以てするの
です。もし、委ねながら心配していたら、信頼した事にはなりません。ですから、委ねて信頼したら、
もうそれについては心配したり、考えたりしない事です。なぜなら、「主が成し遂げて下さる」(詩篇37
:5)と約束されているからです。また、エペソ3章20節にもあるように、「私達の内に働く御力
によって、私達の求めるところ、また、思うところよりも、はるかに超えて成し遂げて下さる」から
です。決して自分が成し遂げるのではなく、全能主が成し遂げて下さるのです。という事は、主に
委ねて信頼したものは、必ず成就するのです。「主のお語りになったことを、必ず成就すると信じた
あなたは、なんと幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)例えば、私達の教会には、バイブルランドを
作り上げるというビジョンがあります。そのビジョンのために、私達自身が動き回って、「あれもこれも
準備して、たくさんの人達に協力をお願いして…」と考えていたら、どれだけ時間がかかるか分かり
ません。ところが、全能主は「1年で出来る」と言われました。それは、はっきり言って、必ず成る
という事です。全能主は、私達の思うところをはるかに超えて成し遂げて下さるのです。それを、「本当
かな」と疑ったら終わりです。「全能主が成し遂げて下さる。委ねて信頼したものは必ず成る」と、
本気で信じるのです。それが信仰の勇気です。
(結)私達が自分の肉に頼り、心配して思い煩っても、それで私達の願いが成就する訳ではありま
せん。ですから、もう自分の肉は完全に見切って、大胆に主に委ね、信頼し、成し遂げて貰うのです。
そして、私達の求めるところ、思うところよりも、はるかに超えて成し遂げて下さる全能主を、人々に
発信して行くのです。すると、御言葉にある通り、教会によって、全能主の栄光が現され、世々限り
なく誉め称えられて行くでしょう。どうか、「主に委ね、主に信頼し、主に成し遂げて貰うという
信仰の歩みを、勇気をもって始め出し、全能主の栄光を表して行く教会」となりましょう。
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