2025年11月2日
| 『全能主の懐に飛び込んで、その心に合わせて行く』
使徒の働き7:51~60
|
(起) 使徒行伝7章51節の「頑なで、心と耳とに割礼を受けていない人達。あなた方は、いつも
聖霊に逆らっています」という、ステパノの言葉から、「全能主の懐の中に飛び込んで、全能主の
心に合わせて行く事」を学んで行きたいと思います。
まず、イザヤ43章7節から、「わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、
これを造った。」と言われる、創造主の御業を「皮膚の仕組み」から見て行きます。皮膚には優れた
感覚器官があり、そのおかげで、火傷や骨折を未然に防ぐ仕組みがあります。この感覚器官には、
触点、圧点、痛点、温点、冷点などの5種類があります。私たちは普段、
この感覚器をいちいち自覚して、意識をしている訳ではありませんが、実は凄い叡智の仕組みが
あるのです。例えば、触点は指先や口唇に多く、背中には多くありません。もし背中が指先の
ように敏感ならストレスを感じて、ゆっくり寝ていられないでしょう。また圧点は掌に多く
あり、そのおかげで、手で触っただけで物の形状や重さを感じ取ることが出来ます。逆にお尻は
鈍感であるため、長時間、苦も無く座り続けられるのです。さらに、痛点は5種類の内で一番
数が多いのですが、それは身を守る上で、最も理に適った防衛反応システムです。また、温点や冷点は、
数が少ない器官ですが、危険でない温度に対しては、鈍感に出来ており、危険を感じる温度には、
敏感に反応します。このように、これら5種類の感覚器官は、実によく考えられて体中に適切な場所
と数が配置されているのです。これほど理に適った仕組みは、人間の身体を隅々まで知り尽くして
いないと出来ないシステムです。まさか、これが偶然にシステム化されることはないでしょう。身体
を知り尽くし、環境も知り尽くした上で、感覚器を用意し配置しなければなりません。そこには、
「サムシング・グレイト」と言われる、偉大な叡知を持つ絶対的な御方がいなければ、創り上げる
ことは出来ないことです。この御方について聖書では、「わたしの栄光のために、わたしがこれを
創造し、これを形造り、これを造った」と言われた「全能主、ヤハウェ」である事を明らかにしてい
ます。
(承) では、その全能主を信じ、全能主に命を捧げたステパノという人について、使徒行伝から
見て行きたいと思います。ステパノは、主を信じる心と力とに満ちて、民衆の間でめざましい奇跡と
しるしを行い、初代教会の中で、一番最初に殉教した人です。そのステパノのメッセージが7章から
出てきますが、彼がユダヤ人達に対して一貫して語った事は、「頑なで、心と耳とに割礼を受けて
いない人達。あなた方は、いつも聖霊に逆らっています」(7:51)という言葉でした。「割礼」
というのは、アブラハムの時代から始まった事ですが、この割礼は、「全能主を信じ、信仰によって
生きて行きます」という事のしるしとして受けたものです。しかしながら、「心と耳とに割礼を受け
ていない」という事は、要するに「本音と建前を使い分けた、形だけの信仰」という事です。私たち
は言葉を耳で聞きますが、聞いた事を頭で処理するか、心で処理するかが問題なのです。心と耳と
に割礼を受けた者は、全能主を信じ、全能主の考えの中で、物事を判断します。しかも、いつも全能主
に心を開いて聞き、その心で考えて生きて行きます。ユダヤ人達はその心を持っておらず、頭だけだった
ので、「あなた方は心と耳とに割礼を受けておらず、いつも聖霊に逆らい、聖なる方を裏切る者、殺す
者となった」(7:51、52)と、ステパノは語ったのです。
(転)しかし、同じユダヤ人の中でも、心と耳に割礼を受けていた人もいました。例えば、イエス様
の時代に、「アリマタヤのヨセフ」という人がいました。当時、彼はユダヤ人の最高議会の議員の一人で
した。ですから、祭司長たちに逆らう行動は取れませんでした。しかし、祭司長たちが十字架に付け
たイエス様を、大衆の面前で十字架から引き下ろし、丁寧に墓に納めたのです。普通、ユダヤ人の
議員はそういう事をしません。なぜなら、イエス・キリストを十字架につけたのは自分達であった
からです。しかも、ヨセフは、ピラトの所にわざわざ行って、イエス様の体の下げ渡しを願ったの
です。彼は、今更ピラトの所に行っても、冷たく扱われ、非難されるだろうという事は容易に想像
できたと思います。それだけでなく、自分一人だけが、他の議員達に反対するような行動を取れば、どんな
に白い目で見られるか分かりません。それが地上の人間のしがらみです。しかし、それでも彼はピラトの
所に行って、「イエス様の体をきちんと埋葬したい」という気持ちを表しました。それは、どこまで
もイエス様に心を向けていた証拠です。その心があると、「恥をかく事」や、「面子を失う事」に
対する頭の考えを超えてしまうのです。それが、心に割礼を受けた者のしるしです。即ち、信じた
者はいつもイエス様に心を向け、イエス様の側に立って物事を考えて行くのです。なぜなら、信じた
者の目標は、全能主と御子イエス・キリストとの交わりの中に入る事だからです。全能主は、その目的を
もって人間を造られました。ですから、信じた者は、全能主とイエス様の考えの中にドボンと浸かり、
その中で生きて行くのです。即ち、イエス様の御名の中にバプテスマされ、四六時中、全能主の中に自分
自身の身を置いて、生きて行くのです。
(結)私達は、全能主を信じ、イエス様の救いに与った者です。それなのに、全能主とイエス様の
心に合わせようとせず、世の仕事に就くと、世の考え方にドッポリ浸かり、心と耳に割礼を受けて
いない者のようになるのです。しかし、クリスチャンとして、主を信じたのであれば、全能主と
イエス様の中にドボンと浸かった中で、頭を使って行くべきです。私達が、これから使徒行伝の
ような働きをして行くためには、まず心と耳とに割礼を受ける必要があります。その為には、自分の
肉の頭を使わずに、イエス様に在って考え、どこまでもイエス様を信頼して行こうとする心を使うべき
です。自分の肉を守り、自分の肉を優先しようとする自立心からおさらばし、主の懐の中に飛び込む
決心をする事です。そして、全能主の前に心を開き、全能主と心を合わせて行くと、心と耳とに割礼を
受けて、主に従い続けて行くことができるでしょう。どうか、全能主と御子イエス・キリストとの
交わりを喜ぶ心を、培って行こうではありませんか。また、「全能主の懐の中に飛び込んだの
なら、四六時中、ひたすら全能主の心に合わせて行く心を持って」、これから教会に集められ、
使徒行伝のようなリバイバルが起こって来るように、祈り求めて行きましょう。
|
|