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2025年11月16日

聖書の理屈に立ち、自分の意思によって、
「全能主に従い、信頼して行く」生き方を始め出す

使徒の働き17:11 


(起) 「聖書の理屈に立ち、自分の意志によって、『全能主に従い、信頼して行く』という生き方を

始め出す事」
を学びたいと思います。


 まず、創造主の存在について見て行きます。人間の体には、毛細血管が体中(からだじゅう)に張り巡らされてい

ます。この毛細血管には、三種類があります。第1に連続毛細血管第2に(ゆう)(そう)毛細血管第3に(どう)(よう)

毛細血管
です。第1の連続毛細血管は、最も一般的な血管で、透過膜によって筋肉や皮膚などの細胞と

つながっています。第2に(ゆう)(そう)毛細血管は、物質を高速に出し入れできるように毛細血管の内皮

細胞に多くの窓(孔)がついています。そして、さらに大きな物質を出し入れできるのが第3の(どう)(よう)

毛細血管
です。洞様毛細血管の隙間は血球も通れるサイズで、血球が移動するための骨髄や脾臓などに

張り巡らされています。これら、構造の違う3種類の毛細血管があるからこそ生命は維持できます。

なぜなら、連続毛細血管が骨髄とつながっていた場合、血球の新規補充ができず血管内の血球は古くなり、

やがて生命維持活動ができなくなります。もし洞様毛細血管が脳とつながっていた場合、大きな分子を

透過してしまう構造のため、脳に有害毒素が簡単に入りこみ、髄膜炎等にかかり生命維持ができなくなり

ます。つまり、人類誕生時から各細胞・各臓器に対し、毛細血管が適材適所の形を持って仕組まれているの

です。この仕組みは偶然ではなく、知的な設計主がいなくては成り立ちません。なぜなら、40兆に及ぶ

各細胞に適切な栄養素を届ける仕組みには、知的なデザイナーが存在しなければ成り立たないからです。

聖書は、人知を遙かに超えた設計主を「全能主である、ヤハウェ」とはっきり紹介し、「全能主は、それぞれの

目的に従って各器官を設計され、御旨のままに各器官を備えられた」(Ⅰコリント12:18)と証言して

います。
この知的なデザイナーがいなければ、全て偶然となり、偶然には緻密なデザインは存在しないの

です。ですから、全能主の存在は、被造物によって明瞭に認められているのです。


(承)このように、私達の教会ではまず初めに「全能主の存在」について学んでいます。それは、「私達の

命を造られた御方がいらっしゃるならば、その御方に従い、信頼して行く事が当然である」という事を

伝えたいからです。
また、その全能主の前に罪を犯してきた私達は、本来なら裁かれるしかありませんが、

「全能主が一方通行の愛でイエス様を送って下さり、信じる者を懐に迎え入れて下さる」という福音を

伝えたいからです。この理屈を信じたなら、「自分は全能主にあって生きて行く」という意志が働き、

新しい生き方が始まります。即ち、全能主は私達よりも上に存在する御方であり、私達の命の救いは、

すべて全能主に()かっているということです。ですから、私達自身が「どう考え、どう思うか」ではなく、

どこまでも「全能主に従い、全能主に信頼して行く」という新しい生き方を、自分の意志によって始め出すの

です


(転)ところが、このような現実を理屈で考えるよりも、感情で考える人の方が多いのは、何故でしょうか。

それは、「自分の命は自分のものである」と、生まれ(なが)らにそう思い、「自己実現する」というのが

当たり前になっているからです。しかし、自分の命は、「自分で創った自分の所有物」ではありません。

私達を創られた御方がいるのです。それなら、創って下さった方の考えに従うのが筋です。なのに、罪人の

人間はその道理を受け入れません。たとえ、信じると言っても、それはただ、御利益(ごりやく)を求めて信じる

だけです。そういう人は、罪についての自覚が薄く、罪人がそのまま救われたという事に対する感謝もなく、

すぐ自分の感情に左右され、信仰が揺らぎ、その時の自分の感情によって信じる時と、信じれない時が

あるのです。ですから、私達はまず「自分自身の罪を思い知る」という事が必要です。しかし、感情で

思い知ったものはすぐに消えてしまいますから、それは聖書から思い知るべきです。聖書では、「心の中に

思い描く妄想でさえ罪である」と言われています。ならば、私達は(こころ)諸共(もろとも)にゲヘナに行くしか

ありません。このように、聖書には、どれだけ自分が罪人であるかという事について書いてあり、読めば

読むほど苦しくなりますが、「こんな自分は嫌だ」と思っても、罪人であるという事実は変わりません。

ところが、そこへイエス様が来て下さり、しかもそのイエス様の贖いがアオリストだと聞いたなら、「イエス

様が全てです。イエス様に信頼して行きます」という方向に向かうのが、正しい信仰の在り方ではないで

しょうか。それは、自分が強いとか弱いとかいう問題ではありません。聖書は、私達自身がどうであるか

という事については一切触れていません。即ち、「自分自身の正しさを表して行く事によって救われるとか、

救われない」という問題ではないのです。「全てはイエス・キリストにかかっている」という事が真理です。

聖書を通してこの理屈を信じた人は、「イエス様にあって生きて行くしか道はない」という意志が働くの

です。

(結)どうか、もう自分の感情に立ってフラフラするのではなく、理屈で明確に書かれた聖書があるのです

から、分からない事は聖書に聞いて、立つべき所にはっきりと立って下さい。使徒行伝17章に出てくる

ベレヤの人々は、「素直な人々で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、これらの事がその通りであるかどうかと、

毎日丹念に聖書を調べた」(17:11)とあります。皆さんも、牧師が語っている内容を、聖書を通して

確認し、「自分の意志で全能主に従い、信頼して行きます」と決めて下さい。自分の思い、自分の考え、

自分の生まれながらの性質、自分の生い立ち、そんなところに真理はありません。聖書に真理があります。

即ち、私達を罪の滅びの中から救って下さったイエス様と、イエス様を送って下さった全能主が全てです。

どうか、この聖書の理屈に立ち、自分の意志によって、「全能主に従い、信頼して行く」という生き方を

始め出しましょう。


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