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2024年4月28日

幼子のように主に信頼し、主に聞き従って行く

マルコの福音書 10:13~16


(起) マルコ10章15節「誰でも幼子のように御国を受け入れる者でなければ、決してそこに入る

ことはできません」
という御言葉から、「全能主は正しい。イエス様は正しい。聖書は正しい。」という

土台に立って、「幼子のように主に信頼し、主に聞き従って行く」という信仰を、現場で表して行く事

学んで行きたいと思います。


(承)さて、イエス様は、「誰でも幼子のように御国を受け入れる者でなければ、決してそこに入る

ことはできません」と言われました。この「幼子のように」とは一体どういう意味でしょうか。いろんな

見方があると思いますが、基本的に幼子は、「理屈で物事を考えて話す事」はしません。中には口達者な

子供もいますが、大人に比べて、知恵はそこまで進んでいませんから、親の言う事をそのまま聞くしか

ありません。ですから、言われた事をそのまま受け留め、聞いて行くというのが幼子の特徴です。ところが、

大人になると、自分の頭で理屈をこね、自分勝手な感情で考えて、自分で物事を決めるようになります。

しかし、それが、果たして正しい知恵の用い方なのでしょうか?そもそも、【人間が知恵を使って物事を

考えるようになったのは、エバからです。エバは狡猾(こうかつ)なヘビに騙され、善悪を知る木の実を食べた

ことによって、全能主の戒めを破ることになり、罪の中に入り込んでしまいました。その時以来、アダムは

全能主に逆らう罪の心を持つようになり、全能主から独立して知恵を使うようになったのです。その結果、

カインは身勝手な損得の考えを働かせて、ケチった心で全能主に捧げ物をして赤恥(あかっぱじ)()きました。

もし、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べなかったら、エデンの園で、悩む事も、思い煩う事もなく、

全能主の許にあって平安な心で過ごす事ができたでしょう。】私達も、魔物の惑わしから守られて行く

なら、魔物の影響を受けることなく、不安な状態の中にあって苦しむこともなく、最高な幸せを味わって

いけるに違いありません。
つまり、罪深い頭で人を裁くこともなく、魔物の影響を受けて考え悩む事もなく、

ただ素直に全能主に聞き従って行く安心感の中で、どんなに平和を味わうことでしょうか。しかし、この

幸いは、御国に入れられるまで、取っておきましょう
。それまでは、「全能主は正しい。イエス様は正しい。

聖書は正しい」と信じ切る信仰を地上の現場で表し、「勝利を得る者」としての信仰の生き方をして行くの

です。


(転)では、その心をこの地上の現場で表して行った人は誰でしょうか。それは、ジョージ・ミュラーさん

です。彼は、家族の生活だけでなく、孤児たちの生活も養って行く中で「全能主は正しい。イエス様は

正しい。聖書は正しい」という信仰に立ちました。ですから「孤児の父は全能主である」と聖書に書いて

ある以上、天の父がその孤児の父として養って下さると、幼子のように信じ切ったのです。
このジョージ・

ミュラーさんの全能主は、今も生きて働いておられます。ならば、私達もジョージ・ミュラーさんの

ように、信じ切る信仰の心を持って、現場でその素直な信仰を表し続けて行けるはずです。
また、マルコ

12章41節以降に記されている貧しい寡婦(やもめ)が、生活費の全部を献げたように、本気な心を持って

全能主に信頼した信仰は、イエス様の御心に適うのです。ですから、私達も純な信仰を表して行こうでは

ありませんか。あの寡婦が、生活費の全部を献げたという事は「命を保証するものはお金ではなく、全能

主だ」
と、幼子のように信じ切ったということです。こんな純な信仰が通用するなら、私達も「全能主の

国と、全能主の義を第一に求め」、全能主に本気で喜ばれる者になりたいと思いませんか。
これが、信仰を

地上の現場で表して行くという証です。実際問題、私達もそういう事を頭で考えたら「できない」という

思いに捕らわれてしまいます。しかし、寡婦は頭を使って考える事をせず、「主に信頼せよ。主が成し

遂げて下さる」
という、幼子の信仰の心に立ったのです。そして、この信じる信仰を、献金の現場で表し

たのです
。ならば、私達もこの信仰の決断に習って行きましょう。悪魔は「本当にできるのか」と、あざ

笑ってくるでしょう。すると、ためらう心は当然出て来ます。それは自分に降りかかってくるリスクを頭で

考えるからです。
それを考え始めたら、私達は主に従う事が怖くなって、一歩も動けなくなってしまうで

しょう。しかし、その時に幼子の信仰の心に立つのです。主は、決して見放されません。頭を使って考える

事をしなければ、ただ主を信頼する心の故に決断する事ができるのです
信仰というのは、幼子のように

頭で考えず、聞いて行くこと
です。そして、その信仰を現場で表して行くのです。

(結)ですから、真理には二面性があるのですが、信仰の一面として幼子のように「ぐだぐだと考え

ない」
という素直さが必要であるということです。確かに、頭を使って考えれば、何が正しくて、何が

正しくないかという事を判断するでしょう。しかし、頭は、信仰の心を超えることは出来ません。何故なら、

たとえ正しい事が頭で分かっても、私達は罪人ですから、その通りにはできないからです。だからこそ、

「まず、自分が罪人である事を認め、悔いし砕かれた心」を持って、全能主のお言葉を信じるのです。

これからは、あえて主に信頼し、委ね、任せきるのです。
その心を持てば、善悪を知る木の実を食べる

前の、安心な世界を味わうことができるでしょう。それは、頭で考える世界ではなく、主に信頼する世界

です。どうか、「全能主は正しい。イエス様は正しい。聖書は正しい」という土台に立って、「幼子の

ように、ただ主に信頼し、主に聞き従って行く」
という、幼子の信仰に立って行こうではありませんか。


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