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2024年4月21日

たとえ排斥されても、肉的な価値観から霊的な価値観へ

マルコの福音書 7:1~13


(起) マルコ7章1~13節「あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、全能主の

言葉を無にしている」
と、イエス様がパリサイ人と律法学者たちを非難された所から、地上と結び付いた

「肉的な価値観」ではなく、天に結びつく「霊的な価値観」を持って、
「全能主の国と全能主の義を

第一に追い求めて行く事」
を学んで行きたいと思います。


(承)さて、福音書を読み始めて、最近分かってきた事があります。それは、「イエス様とパリサイ人、

律法学者たちは、初めから心の一致がなかった」という事です。今日お読みしたところでは、彼らが

昔の人の言い伝えに(こだわ)っていた
ので、イエス様は彼らを非難されました。実は、その「言い伝え」

とは、旧約聖書に記されて いる律法の事ではなく、ユダヤ人が独自に作った「自分勝手な戒め、規則、

規定の事」なのです。それがいつ頃作られたのかと言いますと、ユダヤ人がバビロンに捕え移された

時代です
。その捕囚時代には、神殿も壊されてしまっていた為、彼らは全能主との繋がりを持つ手段を

失っていました。そこで、彼らはラビ達の言い伝えによって、自分たちが造った会堂に集まり、アイデン

ティティをかろうじて保って行ったのです。そんなユダヤ人に対して、ペルシャの王クロスは、バビロニア

帝国を滅ぼした時、ユダヤ人を解放し、エルサレムに神殿を再建することを許可しました。ところが、

その時にバビロンにいた全てのユダヤ人がエルサレムに戻ったわけではなく、なお異邦の地に残った民も

たくさんいました。そこで、残った民は世界に散って行き、自分達のコミュニティを作り、財を蓄える

ようになったのです。そんな彼らの中にあった思惑は、「もう二度と排斥されない民になる」という事

でした。即ち、ユダヤ人には、アブラハムに約束された選民思想がありましたので、いずれは「メシヤの

出現によって世界を統一し、ユダヤ人の治める地上の御国を実現する」
という考えを強く持ちました。

ですから、ユダヤ人は「自分達は選ばれた民であって、異邦人は選ばれていないのだから、逆に排斥しても

いい」という過激な選民思想をもって、心を狂わせていったのです。ですから、イエス様が来られた時に、


「時は満ちた。天の御国は近づいた。悔いて心を転換し、福音を信じなさい」(マルコ1:15)
という

宣教に対して、見向きもしなかったのです。それは、バビロニア時代から始まったパリサイ派の教えとして

持っていた「自分たちの言い伝え」を旧約聖書より重んじ、この地上に造る御国が彼らの望みになって

行ったからです
。即ち、彼らの物の見方、価値観は、どこまでいっても地上的で、決して天に繋がる全能

主の民としての望みではありませんでした。ですから、イエス様は彼らを非難し、
「この民は、口先では

わたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らは、人間の戒めを教えとして教え、無意味に

わたしを拝んでいる。」「あなた方は、全能主の戒めを差し置いて、人間の言い伝えに固執している。」

(マルコ7:6~13)
と言われたのです。


(転)では、私達はどうでしょうか。私達の中にも、ユダヤ人と同じように「地上で排斥されたくない」

という強い自己保存の精神のために、全能主の言葉よりも、地上の損得の精神が心を占めていないで

しょうか
。もし、その強い肉の心を持っていたら、私達は患難時代を通れません。なぜなら、患難時代に

入れば、私達クリスチャンは確実に、この地上で排斥されるからです
しかし、たとえこの地上で排斥

されても、全能主から排斥されなければ、それでいいのです。
私達はイエス・キリストによって全能主と

結びつけられたのですから、地上で排斥される事を恐れる必要はありません。日常生活の中でも、日本人の

間で美徳とされているような言い伝えや、先祖や親からの地上的な教えによって縛られる必要はありま

せん。むしろ、地上に結びつこうとする物の見方、考え方から、完全に離れるべきです。私達は地上の

損得で生きるのではなく、どこまでも全能主を第一にして生きている者だからです。
「まず全能主の国と、

全能主の義を追い求め、主が成し遂げて下さる事を信じて、主のために生きて行く。」これが私達の信仰の

土台です。私達にとって一番の関心事は、地上のことではなく、天で全能主に受け入れられる事です。

ですから、全能主に喜んで頂ける事は何かを考え、天に繋がる事だけを一生懸命考えて行くのが、キリ

ストのアオリストの救いを頂いた者の生き方です。それが私達の地上での生き方であり、御霊によって

生きるクリスチャンの関心事です。


(結) こういうわけですから、私達の残りの生涯は、地上を恐れず、人を恐れず、排斥される事を

恐れず、全能主に喜んで頂ける生き方を意識して行くのです。たとえ地上の事に関して一生懸命

やって功績を得たとしても、それが天に繋がらなければ何の意味もありません。「人がたとえ、

全世界を手に入れても、自分の命を損したら、何の得になりましょう」(マルコ8章36節)
とある

通りです。たとえ、私達が地上で排斥されても、この命は、全能主の中にありますから、地上の命を

捨ててでも、天の御国を選ぶべきです。
どうか、地上に結びつく肉的な心ではなく、天に結びつく

霊的な心を持って、全能主の国と全能主の義を第一に追い求めて行こうではありませんか。


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