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2023年5月7日

地上の御利益に心を向けるのでは無く、御国に心を向け、
全能主の御計画のために使って頂くこと

マルコの福音書 14:32~42


(起) マルコ14章のイエス様のゲッセマネの祈りから、「地上のご利益に心を向けるのではなく御国に

心を向け、全能主の御計画のために使って頂くこと
」を学んで行きたいと思います。


(承)イエス様は復活された後、マグダラのマリヤの前に姿を(あらわ)されました。そこで、マリヤは早速

弟子たちの所に帰って「主とお会いしました」と知らせたのですが、弟子たちはその言葉を「戯言(たわごと)」として

信じませんでした。また、エマオに帰ろうとしていた二人の弟子にも、主はその姿を現されました。

そこで、彼らも急いでエルサレムに戻り、弟子たちに「主にお会いした」と知らせたのです。しかし、誰も

それを信じませんでした。弟子たちはずっとイエス様の(そば)にいて、イエス様から何度も「わたしは

十字架につけられ、そのあとで甦る」
という話を聞いていたのです。それなのに、実際にその様になった

時、誰も信じることができなかったのです。それは、彼ら自身が持っていた先入観に問題がありました。

ユダヤ人は子供の頃から旧約聖書を教え込まれて来ました。その聖書には、「イスラエルが苦しみに合うと、

士師たちや預言者(モーセ等)が送られ、イスラエルが悔い改めた時、他国の支配から解放されて行く」

ということが記されていました。ですから、「イスラエルの民の救世主(メシア)は、自分たちを他国の

圧政から解放してくれるお方」
として考えていたのです。このような先入観をユダヤ人が持っていた為、

イエス様の時代のユダヤ人たちも、ローマ帝国の圧政から救って下さるメシヤ(救世主)の到来を待ち望んで

いました。ですから、使徒行伝の記録を見ると、弟子達は、復活したイエス様に出会った時、「イスラエルの

ために王国を復興されるのは、この時なのですか」(使徒1:6)と聞いています。しかし、旧約聖書の

メシアの預言は、魂の救いだったのです。そのことを、弟子達は、イエス様から、ヨハネの福音書の中に

書かれてある魂の救い主について、何度も聞いていたはずなのですが、 罪の贖いを成し遂げて、御国に

入れて下さる救い主という見方に、彼らは切り替えていなかったのです。
即ち、弟子達は、「どこまでも、

地上的な御利益を与えて下さる、地上的なメシヤとしての救世主」という、先入観を持ち続けていたの

です。ですから、キリスト(魂の救い主)に対して落胆し、十字架に付けたのです。それは、私たちに

とっても言えることです。
私たちは、罪からの救いを信じましたが、その救いは、どこまでも地上的な

御利益を叶えて下さるキリストとして、勘違いしているところがあります。即ち、ローマ帝国の支配から

解放して下さる救世主のような見方をしているのです。しかし、本来「キリスト」とは「魂の救い主」

という意味であり、罪から救って御国へ入れて下さるお方なのです。ですから、そのお方を信じる私たちは、

地上の御利益を得ることではなく、むしろ、「主を信じる敬虔の中を生きよう」と思うと、御利益どころか、

「皆迫害を受けます」 (第Ⅱテモテ3:12)となるのです。ということは、地上的な御利益が救い

ではなく、むしろ、キリストを信じて従うことは、「自分を徹底的に否定して、自分の十字架を負って

従うこと」
なのです。ところが、弟子たちを含む当時のユダヤ人たちは、そこのところが理解できず、

あくまでもこの世での救いであってこの世の御利益(ごりやく)が 自分たちの救いだ、という先入観を

捨て切れなかったのです。


(転)では、私たちはどうあるべきでしょうか。先ほども言いましたが、私たちもイエス・キリストの

救いを世的なものとして捉え、この世において苦しみを受けないように、守られて行くことが救いだと

思ってしまっています。
その証拠に、最初に信じた時に「罪深い自分を変えてもらえる」という御利益を

願って、救いを追い求めました。しかし、現実は命閉じるまで、この罪深い自分は変わって行きません。

むしろ、罪深い自分の姿を思い知るのです(ロマ7:14)。
ですから、私たちは、「この地上で通用する

人間になりたい。理想的な人間になって生きて行きたい」という願望があっても、この地上では、その

御利益
(ごりやく)
を受けるという考えは、改めなければ
なりません。なぜなら、救いは、地上で受けるものでは

なく、天の御国で受けるものだからです。
ですから、私たちにとって、この地上では寄留者であり旅人

です。
地上で御利益を受けていく生活や、地上で受け入れられる人間を目指すことは、クリスチャンの

生き方ではありません。ここのところが切り替わっていないと、どうしても「この地上で自分は助けて

欲しい、救われたい」という自分勝手な強い願望が先立ってしまいます。その心が先立っているなら、

全能主のために生きて行くことは、二の次になってしまいます。しかし、私たちの救いは、天にあります。

それは「御父と御子との交わりを天で味わう世界こそが救い」だからです(第一ヨハネ1:3)。この

切り替えをして行く時
、イエス様がゲッセマネの園で祈られたような祈りをすることが出来ます。即ち、

その祈りは「アバ、父よ。あなたにはできないことはありません。どうか、この杯をわたしから取り除けて

下さい。
しかし、わたしの思いではなく、あなたのみこころのままになさって下さい」という祈りです。

即ち、イエス様は弱音を吐かれましたが、最終的には「苦しみを受け留め、自分にとって不利な道に

向かいます」と立ち上がられたのです。私たちは、全能主の集大成の働きに用いられて行く者として、

この祈りができなければなりません。これから全能主の集大成の働きをして行こうとする時に、悪魔が

牙をむいて私たちに立ち向かって来るでしょう。患難時代では当然そうなのですが、それ以前にもその

ような出来事が起こってくるのです。しかし、そこで「苦しみを受けないように助けて下さい。守って

下さい」と御利益を願えば、666の餌食になります。むしろ、「どこまでも全能主の御心のままに

なさって下さい」
と祈るべきです。私たちの国籍は、全能主がおられる、天の永遠の御国です。私たちは

そこに入れて頂く者として、全能主を100%信頼し、「全能主のためならどんな苦しみも受けます」

という、イエス様が祈られたのと同じ祈りをするのです。
この祈りは、この地上で御利益を求めて行く

祈りではありません。「この世で御利益(ごりやく)を受けることが、自分たちにとっての救いだ」という

先入観を取っ払わなければできない祈りです。


(結) こういうわけですから、私たちの先入観を変えて下さい。「地上で苦しみを受けたくない」

思うことは、私たちの大きな勘違いだったのです。私たちはこの地上で自分の命を守ろうとしてはいけま

せん。私たちは、地上の御利益に心を向けるのではなく、天の御国に心を向け、地上では全能主の御心の

ままに使って頂く事に、心を向けていこうではありませんか。

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