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2023年2月5日

心の壁を破り、どこまでも全能主に従っていく

ルカの福音書21:1~4、ヤコブ書2:19~26


(起) ルカ21章1~4節の「寡婦(やもめ)の献金」の記事から、「自分には『できない』、『嫌だ』

と思う
心の壁を破り、どこまでも全能主に従っていく本物の信仰」を学んでいきたいと思います。


(承)さて、イエス様は、ある貧しい寡婦(やもめ)が、献金箱にレプタ銅貨二枚を捧げたのをご覧になり、

「あの
貧しい寡は誰よりもたくさん投げ入れました。なぜなら、あの婦人は、乏しい中から、持っている

生活費の全部を投げ入れたからです」
と言われました。この聖書箇所を読む時、イエス様は、「献金箱に

幾ら入れたのか」を見ておられたのではなく、その人が、「どんな心で捧げようとしていたのか」を見て

おられたことが分かります。人間は全能主の前に、信仰的な純な心だけではなく、自分勝手な醜い心をも

持っています
。ですから、イエス様はその人が、「どういう心で行動するのか」を見ておられるの

です。この寡婦(やもめ)の場合、「捧げたい」という心と「それだけはできない」という、相反する二つの心

を持っていたはずです。ところが、彼女は「それだけはできない」という、心の壁を破って、勇気

(もっ)て、あえて純な信じる心を選択し、その心に従って
「生活費の全部を投げ入れた」のです。

この純な心を選択した
寡婦(やもめ)の心をイエス様は見られました。そして、「あの貧しい寡婦(やもめ)は、誰よりも

たくさん投げ入れました」
と感心されたのです。それは、乏しい中から、持っている生活費の全部を

捧げる決心は、本気で全能主に従って行こうとする心の表れだったから
です。即ち、この捧げ物は、

「全て捧げればいい」という話ではありません。
イエス様は、この寡婦(やもめ)の心の内にある「信じる

気持ちの表れ」
を喜ばれたのです。確かに信仰は、行いと共に働きます。「行いが伴わ
なければ、

死んだものです」(ヤコブ2:17)。ところが、実際に、こんな純な心で信じて行くことを追求して

行くクリスチャンは、そう多くはありません。しかし、この信仰の姿こそ、信じた本物の信仰者としての

生き方
であり、私たちが求めていくあり方なのです。


(転)しかしながら、多くのクリスチャンは純な信仰の生き方を、実際に行って行こうとすることに

躊躇します。なぜなら、「聖書に書いてある通りのことが起こる」のだと、信じられないからです。

ですから、「私にはできません」と決めて、自分で勝手に「できない壁」を作り、その壁を自分で

取り払うことをしないの
です。しかし、それは、はっきり言って全能主を信じていないのと同じです。

確かに、私たちは
自分の命は創造主の手によって造られたものだと分かっています。それなら、

誰だって全能主がおられるということは、当然
認めていることです。でも、全能主を認めていることと、

全能主が示された通りに行っていくこととは、別物になって
います。ヤコブ2章19節には、「あなた

は、全能主はただひとりであると信じています。それは結構です。しかし、悪霊どもでさえ、信じて

おののいています」
とある通り、悪霊どもは全能主の存在を信じています。
ところが、彼らは全能主

に逆らっています。ですから、私たちも、全能主を信じているからと言って、信じて
いる通りに行動を

取るかというと、そうではないのが現実です。しかし、全能主の前では、そういう都合の
いい信じ方

は通用しません。ヤコブ2章22節を見ると、「アブラハムの主を信じ仰ぐ心が、行いと共に働き
その

行いによって主を信じ仰ぐ心が全うされたのです」
とあります。即ち、アブラハムは全能主から「あなた

の一人子イサクを捧げなさい」と言われた時、「全能主ならイサクを甦らせることがおできになる」

と信じ、
全能主の言葉に従いました。普通なら、「それだけはできません」と言いたくなるところです。

そして、「約束によって与えられた一人子なのに、その子を殺してしまったら、私の子孫が星の数ほど増え

広がって行く
と言われた約束はどうなるのですか」と、言いたくなります。私たちは、自分の頭で

考えて、理屈に合わないと、「その理屈は間違っているからできません」と、いくらでも言えてし

まうのです。でも、「従う」ということは、理屈ではありません。たとえ全能主の言葉が理屈に

反していようが、私たちは従うのです。何故
なら、私たちは「全能主は正しい」と信じたからです。

だから、私たちが全能主に対して「それは間違って
います」と言うことは、自分が信じたお方を否定

することになるのです。私たちは、どんなに自分が「でき
ない」、「嫌だ」と思うことであっても、

全能主を信じるが故に従って行くのです。私たちは、この決断を全能
主の前にすべきです。全能主が

アブラハムに言われたことは、人間的には絶対に道理に合いません。
それでも、全能主が言われること

は絶対です
。この絶対的なお方に対しては、たとえ嫌でも、自分自身が不利になるとしても、自分の考え

を捨てなければならないのです。これが、主を信頼して従って行く本物の
信仰です。


(結)
私たちの信仰は行動と共に働くのです。だから、「できない」という壁を自分で勝手に作って、

「その壁を乗り越えられない」と言う人は、ただ自分を甘やかしているだけで、「やんちゃな子供が駄々

をこねて
いる」のと同じです。そういう人は、ただ頭だけで信じているという人です。そんな信仰

で生涯終わって
しまっていいのでしょうか。全能主の前に、そういう都合のいい信仰は通用しません

ので、その人は天に
上げられないかもしれません。なぜなら、「行いのない信仰は死んだものです」から。

全能主はイエス様の命を懸けて本物の救いを提示して下さったのですから、私たちに本物の信仰を求めら

れるのは当然です
また、私たちもその救いを頂いたのですから、本物の信仰を表すのは当然です


私たちは、自分自身の
心の壁を破り、「できない」、「嫌だ」と思うことに対して、あえて挑戦して

行く勇気を持ちましょう。そして、全能主を信じて行く本物の信仰を表して行こうではありませんか。


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