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2023年2月12日

見るところを変え、考え方を切り替え、
信じる者の前向きな生き方を始め出す

第Ⅰテモテ1:12~17


(起) 今朝は、第Ⅰテモテ1章12節の「私は、私を強くして下さった、私たちの主キリスト・イエスに

感謝しています」
という御言葉から、「見るところを変え、考え方を切り替えて、信じる者の前向きな

生き方を始め出すこと」
について学んで行きたいと思います。


(承)さて、12節を見ると、「私は、私を強くして下さった、私たちの主キリスト・イエスに感謝して

います」
とあります。パウロは、律法に関して右に出る人はいないほどに、徹底した訓練を受けていた

人です。ですから、人間的には意思の強い人かもしれません。しかし、彼は自分の肉の強さを根拠にして、

この御言葉を語っているのではありません。というのは、「私を強くして下さった」という言葉は、

「キリストに在って強くされた」という霊的な意味で語ったものだからです。確かに、彼は律法に忠実に

生きてきたという誇りは持っていましたが、その誇りは全能主の前に完全に打ち砕かれ、「それは自分に

とってはゴミのようなものだ」
と言いました。ですから、自分の努力や行いは通用しないということを

彼は知っていたのです。
そして、そのことを思い知らされていたところから、「私は、私を強くして

下さった、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています」
と語ったのです。それは、自分を根拠にして

強く生きて行くのではなく、「キリストを根拠にして生きて行く時に、強くされる」からです。即ち、

自分に頼って一生懸命修行して強くなるのではなく、「あなたの道をヤハウェにゆだねよ。主に信頼せよ。

主が成し遂げて下さる。」(詩篇37:5)
という御言葉に立った時に、強くされるのです。


(転) では、私たちもその確信を(つか)むにはどうしたら良いのでしょうか。「その確信を下さい」と

祈れば、確信がやってくるのでしょうか。いいえ、そうではありません。実は、確信は既に与えられて

いるのです。問題は、私たちがそこに目を向けるかどうかです。その確信は何かと申しますと、イエス・

キリストのアオリストの贖いです
私たちは、今現在の状況がどのようであれ、行いの如何に関わらず、

キリストの贖いによってすでに救われており
、全能主も「イエス・キリストの贖いの故に、罪人の頭で

あるお前を受け入れる」と言って下さったのです。そこに立つならば、私たちは常に確信が持てます。

ところが、私たちはそこに立たずに、「自分は救われているはずなのに弱い人間で、何をやっても

できない」と、すぐ弱い自分に目を向けてしまうのです。そうなると、後はもう、かろうじてそれを

反省し、「これからは、やりますから助けて下さい」と言うしかありません。しかし、反省というのは、

自分自身に対して「こうします」「ああします」と決断し、それを他人に表明するものです。ですから、

自分の力で、自分が強くなって、完全な者にならなければ、反省した通りの自分に成ることは出来ません。

しかし、それが出来るというのなら、キリストによる罪人の贖いは、必要はなかったのです。しかし、

問題は、クリスチャンは罪赦された罪人であって、たとえ救われた者であっても罪であり、肉の罪の

性質から解放されるのは、主の再臨の時まで待たなければならないということです(ピリピ3:20~

21)。ということは、私たちが命閉じるまでは、罪の肉の性質は持ち続けなければなりません。だから、

人間には、肉の性質を変えたくても、変えることができないのです。ということは、私たちの反省は、

「自分を変えていきます」という前提でしますが、いくら反省しても、反省通りには変わって行かない

のです。
なぜなら、私たちは自分で自分を救えないからです。だからこそ、イエス様が来て下さいました。

即ち、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さった」ということは、「真実であり、

そのまま受け入れるに足るものです」(15節)。だから、私たちは、ただ「ありがとうございます」と

言って、自分の心をイエス様に向け、どこまでもイエス様に信頼して、御霊によって強くして頂くのです。

罪人である私たちが、自分の肉の努力を根拠にして「できる者に変わりたい」「強い者になりたい」

という、肉の願望に留まるのは間違っています。
それはもう止めて下さい。そうではなく、自分の心を

イエス様のアオリストの救いに向けて行くなら、自分にプレッシャーを与えない生き方が始まるのです。


即ち、「私たちがイエス様を見上げると、イエス様がそういう方向に向けて下さる」ということです。

まさに、「私は、私を強くして下さった、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています」と書いてある

通りです。これは、見るところを変えることなのです。実は、その見るところを変えるということが信仰

であり、ただ、イエス様を見上げ、信頼して行く時に強くされていくのだと、確信を持つべきです。


(結)私たちがいくら正義感を働かせ、肉で反省しても自分という人間は変わりません。だから、

もう自分で自分を変えようとすることを諦めて下さい。むしろ、私たちはそういうダメな人間

だからこそ、イエス様を見上げ、イエス様に感謝し、イエス様に成し遂げて貰うのです。そのような

考え方に切り替えたらどうでしょうか。そして、信じる者の前向きな生き方をして行くのです。

信じる者の前向きな生き方とは、できないと思うことや、嫌だと思うことでも、全能主が「それを

やりなさい」と言われるのであれば、主を信じるが故にやって行くことです。その時には、主が

成し遂げて下さるのです。ですから私たちの目の向け所を、自分から全能主に変えていくことです。

どうか、見るところを変え、考え方を切り替えて、信じる者の前向きな生き方を始め出しましょう。


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