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2022年8月7日

御言葉を深く理解するため、
相手の側に立って聞く姿勢を身につける

ヨハネの福音書 6:22~51


(起)「聖書の御言葉を深く理解して行く為に、自分の考えを横に置き、相手の側に立って聞く姿勢を

身に着けること」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、ヨハネの福音書を読んで行くと、イエス様は、遣わされた者の使命に(てっ)しておられ

ました
ので、どこまでも全能主から遣わされた者として語っておられます。だから、全能主の側に

立った考え方を
群衆に向かって大胆に語っておられました。しかし、その内容や語り口は、人間のレベ

ルに合わせて語って
おられた訳ではなかったので、地上の人間たちにとっては、イエス様がどのような

意図で語っておられる
のか、理解し(がた)いものでした。特に6章33節から語られた言葉は、

多くの群衆の反発を買いました。
「全能主のパンは、天から下って来て、この世に命を与えるもの

だからです。・・・わたしが命のパン
です」(33節、35節)と語られた時、それを聞いたユダヤ

人たちは、
「先祖は、モーセが与えたマナを食べたのであって、人ではない」と言い、激しく

主に(つぶや)き、「こんなひどい言葉は聞いておられない」と言って去って行きました。そして、

それ以来、イエス様と行動を共にしなかったのです。もっとも、元々この内容は
、世の人々が理解

できる次元のものではなかった
ので、彼らの心には入らなかったのです。(しかし、主を信頼し、

信じる心があれば、理解できたはずです。)
このように、聖書の中には、クリスチャンでさえ

理解に苦しむ内容の言葉がたくさん記されています。


(転)しかし、だからといって「聖書のこの部分は信じるが、この部分は理解できないから信じない」

という
読み方をしていたら、自分で理解して信じた部分だけが全能主の言葉だということになり

ます。となると、自分を根拠にして信じるか、信じないかを決めることになり、結局は、聖書を

信じるのでは
無く、自分を信じることになるのです。それは、本当の意味で主を信じたことには

なりませんし、
本気で全能主を信頼して従って行く生き方ではありません。
私たちは、そんな中途

半端なクリス
チャンであってはいけないのです。私たちは、どこまでいっても、聖書に書いてある

イエスの贖いを
信じたのですから、聖書の内容を全て信じ、「聖書は正しい、聖書を書かせた絶対

主は完全に
真実である」と、確信していくべきです。なぜなら、ここを原点にしないと、私たちの

信仰は崩壊してしまうからです。ですから、たとえ聖書の
中には、正反対の内容が記されている箇所が

あったとしても
、それは両方とも正しいのです。例えば、「信じる者は永遠の命を持つ」と記され

ている箇所と、「主を信じた者でも、イエス様をもう一度十字架に
つけてしまう者がいる。その

ような者は、全能主の国に入ることはできない」という箇所を読む時に、どちらが正しいのか?

と、自分流によって解釈し、
理解してしまうからです。そのような、読み方をして行くなら、人の

判断によって、解釈の違う教理が、人の数ほど生まれてしまうことになります。しかし、
これは、

両方とも正しいのです。なぜなら、聖書にはこのような二面性がたくさんありますから、へりくだって


聖書をよく読んで行くなら、その両方ともが真理であることが分かってきます。だから、私たちは、

「この
部分は理解できないから信じない」という考えを持つべきではありません。その自分の考えを

横に置き、「イエス様の言わんとしていることを一生懸命、心を開いて聞こう」という気持ちで聖書を

読めば、たとえ二面性があったとしても、
理解することができます。これは、人の話を聞く時にも同じ

ことが言えます。
私たちは、人の話を
聞きながら、自分の頭の中でいろんなことを考え、時には

否定的なことも頭の中に思い浮かべます。
それでは、その人の言わんとすることは伝わって来ません。

結局は自分が主人公になって聞いてしまうからです。また、怒られている時、「嫌だな」とか、

「そんなつもりはなかった」とか、
自分の頭の中で弁解しながら聞いている時は、怒られている内容を

本当に理解することができません。
かし、自分の考えを横に置いて相手の側に立ち、「どうして

叱られるのか、相手の言わんとすることを
ちゃんと聞いてみよう」と心を変えてみると、「こういう

ことで叱られているのだ」ということが見えてきます
その怒られる理由が見えた後は、自分の中から

反発がなくなり、「自分は、その部分が悪かった」と認める
とができます。すると、素直に謝ることが

できて、かえって嬉しくなるのです。私たちはどこまでいっても罪人ですから、私たちの頭も罪人です。

だから、自分の考えにこだわってはいけません。そうであるならば、
素直に相手の言い分を聞く心を持った

らどうでしょうか。そうしたら、「確かに自分が間違っていた」と分かる
ようになります。そして、

素直に「ごめんなさい」と言うことができます。私たちは、「赦してほしいからごめんなさい」と

謝るのではなく、「確かに言われる通り、自分が間違っていることが分かったから、ごめんなさい」と

言うべきです。これは、私たちが聖書の御言葉を深く理解して行く秘訣です


(結)
私たちが、この姿勢を身に着けることができれば、聖書を理解し、信仰も増していきます。

その
秘訣は、先程も申し上げたように、自分の考えを横に置き、「イエス様の言わんとしている

ことを一生
懸命に聞こう」という気持ちで聖書を読むことです。そうすれば、たとえ二面性があったと

しても、理解する
ことが出来るようになります。どうか、自分の考えを横に置き、相手の側に

立って聞く姿勢を身につけ、
「全能主、イエス様、聖書」を、ますます理解して、従って行こう

ではありませんか。



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