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                                                                                                                              2022年4月17日


全能主に完全に信頼して、人は成長する

マルコの福音書4:26~32

(起) マルコ4章26~32節の「全能主の国」に関する譬えから、「地はおのずから実を結ばせるもの」

という教えの中で、
全能主に完全に信頼することによって、人は成長して行く」ことを学んでいき

たいと思います。



(承)さて、ここでは、「全能主の国とはどういうものか」について、譬えで解き明かされています

ので、
26節から見て行きます。まず、種というものが成長する時、種は最初に芽を出し、次に穂、

そして穂の
中に豊かな実が結ばれます。そして、それらは寝起きしている間に、知らない内に芽を

出して育って
行きます。なぜなら、地はおのずから実を結ばせるものだからです


(転)では、これを私たち自身の信仰に当てはめて考えてみたいと思います。「全能主の国に入れて頂く

ということは、種が地に蒔かれて、恵みの中で人は成長し、実が実ると鎌を入れて刈り取られ、御国の

中へ
入れて頂くようなものです。すなわち、私たちの「信仰の種」は、全能主の恵みによって成長し、

実を
結ぶ者となって、はじめて御国の中へ入れて頂く特権を得るのです。それは、決して自分たちの努力

の報酬ではありません。
もともと私たちの信仰の起源は、自分の努力の結果によって生まれたものでは

なく、御霊の働きによって信じる心が与えられたものです。
ですから、主の恵みで信仰が始まり、その

成長も、
「ただ、全能主を信頼し、全能主が成し遂げて下さること」を味わっていく中で成長して

行くものです。
それは、決して自分の信じる努力で成長して行くものではありません。救いを受ける

時も、
「全能主の
恵みにより、キリストイエスによる贖いの故に価なしに義と認められました」(ロマ3

:24)。「律法を行うことに
よっては、誰一人全能主の前に義と認められないからです」(ロマ3:20)

とあります。
ですから、私たちの救いの原点は、主の一方的な恵みであり、救われた後の信仰も、ただ主を

信頼して行く中で、実が結ばれて行くものです。
ですから、信じる心だけが私たちに必要なものでした。

ということは、
信仰は頭で分かったから、実を結んで行けるというものではなく、心で信じて受け止め

たときに実を結ぶのです。
即ち、信仰の成長は、心で信じ続けて行くところから始まるのです。という

ことは、信仰は、どこまでも頭の理解に
頼るものではなく、心で信じることから生まれるのです。そこで、

今、何故自分を見切ることが「頭の理解では始まらない」と言われているかと言いますと、「罪人の自分を

全て見切らないと信仰が生まれてこない
からです。人は、自分に頼る事が当たり前になっています。

それは、アダム以来、人間は自立したからです
自立した人は自分の考えに立ち、自分に信頼します。

そして、自分に頼っているその人(即ち自分の頭で
答えを出そうとしている人)は、信仰に立っては

いませんし、信仰が始まってもいないのです。
信仰は
自分以外のものに頼ることです。即ち、完全依存

ということです。
ということは、自分を見切ろうとすることは自分に頼っている内は、出来ないこと

です。
自分を見切ることは、「そうだ、その通りだ」と信じる所から始まります。すべて、心から出て

くる信仰は、自分ではなく全能主の側から見る時に、初めて生まれて来る
ものです。ですから、クリスチャン

は、頭で考えて決めるのではなく、心で理解し、心で決断して決めるのです。そこから、「主に信頼せよ。

主が成し遂げて下さる」と言われている御言葉が、光を放つのです。
どんな事も、私たちが主導権を

握って行くことではありません。どこまでも、全能主の主導権に任せて
行くことです。それが、「信仰

が成長していく秘訣」です。
ですから、「地はおのずから、私たちの知らない内に実を結ばせるもの」と

言われている御言葉の真理です。この御言葉は、私たちの知らない所で、
全能主が成長させ、実を結ば

せて下さるということです。しかし、私たちが、この真理に心を合わせられないのは、「つい自分の頭で

考える(くせ)から、抜け出せない中にある」からです。自分の頭で考える人は、信仰に立っていないのです。

信仰とは、「他人任せの()り方であり、自分の思い通りの結果を出すことではありません。」即ち、

全能主に信頼し続け、全能主に任せ切って行くことです。


(結)では、私たちは、どのようにして信頼して行けば良いのでしょうか。それは、最近私たちの

教会に示され、学んでいるように、
「私たちは、生まれた時から自分の中に魔物が住んでおり、私たち

と魔物は一体化されていることを認め、その自分は丸ごと否定する」
ところから始めることです。

すなわち、
成長して
行く信仰を持つためには、サタンが入れ込んだ、「全能主から自立して、自分の

思い通りにしたい」という世界を否定しなければなりません。
もっとはっきり言うと、古い自分自

身を否定し
、古い自分を見切ることです。それをした時に初めて、自分ではなく、成長させて下さ

る全能主に心が向きます。
すると、ここから、どこまでも「全能主に信頼し、全能主が成し遂げて

下さる」という本物の信仰が始まるのです。
自分中心な生き方は、最終的には全能主に背を向けることに

なってしまいます。ですから、全能主に反抗するような自立心は、100%否定し、見切って行くのです。


自分を見切った時、ようやく種に芽が出始めます。そして
次に穂が出てきて、空の鳥が巣をつくるほど

の大きな木となって、そこに実がなるのです。
そのように成長させて下さるのが、全能主です。

どうか、全能主に反抗するような自立心を持った自分を否定し、主の一方的な恵みの中で、成長させ

て下さる全能主を、どこまでも信頼して聞き従っていく、本物の
信仰の世界に入って行こうではあり

ませんか。

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