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                                                                                                                              2022年4月10日


『自分を丸ごと否定し、見切る

ヨハネの黙示録20:11~15


(起) 魔物を抱えた自分を丸ごと否定し、全能主の前に完全にお手上げした自分を見切って、主に

明け渡し、主に信頼する道を歩み出す
こと」
を学んでいきたいと思います。



(承)さて、今日お読みした所では、白き御座の審判の時に、アダムの子孫である全人類が甦って、

全能主の前に立たされる、という事が書かれています。この白き御座の審判では、皆が皆、同じ扱い

を受けるわけではありません。全能主は、一人一人の心を見て裁かれ、命の書に記されて勝利を得た

聖徒たちは、新しい天と新しい地に迎えて頂けるという事が記されています。「全能主の幕屋が人と

共にあり、全能主が人と共に住み、人は全能主の民となり、全能主自ら人と共にいて、人の目から

涙を全く拭い取って下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」
(黙示録21:3~4)

という幸いを味わうのです。このように、「全能主の民となって、私たちを迎え入れて下さる」と

いう幸いの中で(いこ)えることは、なんと、嬉しいことでしょうか。



(転)しかし、そこでふと浮かんでくるのは、「自分はそんな者になれるだろうか」という不安な

思いです。それは何故かと
言うと、人間にはみな魔物の心があるからです。魔物とは、アダムがサタン

(そそのか)されて全能主に背を向け、反抗した事によって、アダムの中に入った悪しき霊です。

この魔物を人類の子孫は、代々皆受け継いで生まれて来ます。ということは、私たちはオギャーと

生まれた時から、魔物の影響を受けた心を持っていたということです。しかも、その魔物は私たちの

心の中で一体化されているため、魔物の思いと自分の思いの区別ができず、別ものとは認識されて

来ませんでした。ですから、「なんで、こんな意地悪(いじわる)い感情が、自分の中から出てくるのだろ」と

思わされる時があったと思います。この
ような感情の出所は、私たちの内に潜んでいた魔物の思いで

あって「自分のしたいと思う善を行わないで、したくない悪を
行ってきた」という、惨めな私たちの現状

がそこにありました。ですから、それらは自分の内から自然に湧いて出て来た
「私の内に宿っていた

罪です。」
このように説明されると、私たちと魔物が一体化されていたことが、良く理解できます。

そして、イエス・キリストを信じた後でも、魔物の心は変わりなく出て来ていました。ですから、

パウロは「私はなんという
惨めな人間なのでしょう」と、ローマ書で告白しています。しかし、信じた

者には、もう一つの声、即ち、御霊の声も聞こえるようになります。ですから、私たちの内には、

魔物の声
と、理性的な良心の声と、御霊の声の三つが、自分の魂の内に
在するようになったのです。

この三つの存在が、ごちゃ混ぜになって自分という人格が、自分の内に形成されていました。
ですから、

このままの状態で白き御座の審判に出たら、「結局、お前は魔物を温存し、魔物の声を聞き、魔物を

利用して
きたのだ」と言われて、裁かれてしまいます。これでは、信じて来たとしても泣いて歯ぎ

しりするしかありません。そこで、
私たちは「魔物と一体化された自分を丸ごと否定し、罪に汚れた

自分を丸ごと見切って、キリストによって贖われた新しい自分によって生きて行く」必要があります。

この生き方は、
自分自身が新たな決断をして、切り替えて行かなければなりません。聖書には、

パウロさんがキリストを信じた時に、「私が今、肉体にあって生きているのは、…全能主の御子を

信じる
信仰によって生きているのです」と、はっきりと切り替えた自分の決断を表わしています。そして、

古い自分は
「キリストと共に
十字架に付けられました」と、魔物を抱えていた古い自分を丸ごと否定

したことを宣言しています。この、十字架に付け
られた自分は、アオリスト形の救いの故に出来る

ものです。ですから、パウロさんは、キリストを信じた時に、「魔物と一体化されていた自分を、

丸ごと十字架に付けた」という信仰に立ったのです。それ故に、たとえ信じた後に魔物の声が聞こ

えて来たとしても、丸ごと否定しましたので、その声に囚われることはありませんでした。ですから、

パウロさんの信仰は、あれ程の確信に満ちたものとなっていたのです。私たちも、同じように、生ま

れた時から自分自身の中に魔物がいた事は、
否めません。それなら、パウロさんのように、自分を

丸ごと十字架に付けられたものとして、完全に見切ってしまう必要が
あります。それは、何故かと

言いますと、私たちは魔物を心の中に抱えて来ましたので、「罪を犯そうが、犯すまいが」
それだけ

で私たちは罪人であったからです。
ならば、その自分を否定するのは、当然ではありませんか。


 確かに、クリスチャンはイエス様を信じてから、「全能主を信じ続けて行きたい」という霊的な声が

出てきます。しかし、同時に魔物の声も聞いて、
両方を都合良く使い分けて来たという(なさ)けない

現実があるのです。即ち、「全能主に従います」と言った次の日には、
魔物の声を聞いて、「自分は

弱いから、従えない」という、不信仰の虜になっていました。聖日の礼拝では、メッセージが終わる

と、すぐに魔物の声が聞こえて来て、「自分に出来るかな」という声を聞いて、信仰が成長しなかった

のです。それは、蒔かれた御言葉を、悪魔が奪って行ったからです。ということは、魔物を抱えてい

た私たちは、いくら「全能主に
従います」と言っても、それはその時だけで、すぐにサタンが御言葉を

奪って行き、「主に従い通したいという心」があっても
、実を結ぶことは出来なかったのです。ならば、

「もう自分はお手上げです」と言うしかありません。「全能主に従いたい」と思っても、魔物の声を

聞いて、すぐに「出来ない」という虜になってしまう自分では、主に従い通すことは出来ませんから。

それなら、魔物を抱えた自分は丸ごと見切り、自分というものに頼る思いから決別し、「主にのみ信頼

して行く、新たな
歩み」を始めなければ成りません。即ち、「出来ない」と言って逃げていく自分では

信用できませんので、100%罪人の
自分を見切って切り替えることです。これをパウロさんはして

いたのです。イエス様は言われました。「私に従って来たいと
思う者は、自分を徹底的に否定し、自分

の十字架を負って従ってきなさい」(マタイ16:24)。このように全てを「主に頼って(おこな)って行く」

という生き方に切り替えて行くことが、魔物から離れる秘訣です。なぜでしょうか。それは、自分に頼ろう

とする
分を丸ごと否定して見切ってしまったのですから、後は、イエス様に信頼して行く道しかないから

です。しかし、それでも魔物の声は無くなりません。「本当にお前に出来るのか。つい先日も決心したが、

又自分に頼って失敗しただろー。どうせ
また、ダメだ」と聞こえてきます。でも、私たちは、自分を

見切ってしまったのですから、主に信頼していく道に戻るのです
。そうすれば、ジョージ・ミュラーさん

のように、「徹底的に主に信頼して行く道を選択して行くようになるでしょう。」それは、
どんなに、

魔物の声が聞こえてきても、その魔物の声を否定した以上、その声に自分の心を寄せないからです。


ということは、どんなに魔物が足を引っ張っても、自分を見切っていたら、そこにはイエス様の贖い

を受けた自分、全能主を
信じた自分だけが残ります。そして、イエス・キリストを信じる信仰の中で

生きて行こうという信仰が出てくるのです。即ち、主に信頼する世界への道が始まるのです。



(結)
私たちと魔物は一体化していました。ですから、その自分を丸ごと否定し、その自分を見切り

ましょう。すると、
「自分の人格がなくなってしまう」と思わされるかも知れません。しかし、そうでは

なく、むしろ、クリスチャンには、主に贖われた
自分が存在しますので、「主に信頼し、主が成し遂げて

下さる」という道が、自分にあることに気づかされます。
すると、「そこで生きて行けば良い」と、

嬉しくなります。もう駄目な自分を見て、落ち込む必要はありません。その自分を丸ごと見切ったの

ですから。ですから、後は、自分を信頼せず、「主を信頼して、主が為して下さる」ということを

味わって行く
信仰の醍醐味を味わって行くだけです。これが、クルシミチャンから解放される秘訣

です。それでも、魔物の声が聞こえて来たら、それは私たちが傲慢にならず遜る為の、警告である

ことを覚えて下さい。ということは、魔物の声は、私たちが全能主を信じて行く上で、傲慢になら

ないためのストッパーの役目となるのです。
ですから、たとえ、失敗しても、悔い改めて、主に信頼

する方向に向かえばいいのです。その心を持って生涯を通せば、私たちは白き御座の審判の前に


立っても、「良い、忠実なしもべよ。」と言われるでしょう。どうか、魔物を抱えた自分を丸ごと

否定して、全能主の前にお手上げした自分で、新しく主を信頼仕切った信仰の道に、歩み出しま

しょう。

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