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2022年12月25日

『主のお語りになったを、必ず成就すると信じたあなたは、
なんと幸いな事でしょうか

ルカの福音書 1:39~45


(起) 今朝のクリスマスメッセージは、「主のお語りになったことを、必ず成就すると信じた

あなたは、
なんと幸いなことでしょうか」(ルカ1:45)と言われた、マリヤの信じ仰ぐ幸いな心

を学んで行きたいと
思います。


(承)さて、ザカリヤの妻エリサベツは不妊の女で、長い間子どもが与えられませんでした。

ところが、
ある日突然、御使いはザカリヤに「恐れるな、ザカリヤよ。あなたの祈りは聞かれました。

あなたの妻エリ
サベツは男の子を産みます。その名をヨハネと付けなさい。」と言われたのです。

ところが、ザカリヤは
その言葉を信じず「どうしてそんなことが起こるのでしょうか。私は老人ですし、

妻も年を取っております」
疑ったのです。このことは、彼らにとって、長い間祈っていたことですから、

メリットのある感謝な御告げで
あったはずです。しかし、年老いたザカリヤは「人間の考えられる

範囲の中でしか、奇跡は起こらない」
という思いに(とら)われていました。しかし、実際には生む力を

完全に失っていたエリサベツに、子が与えら
れたのです。こんな奇跡を起こすことの出来るお方は、

全能主だけです。
なぜなら、「全能主にとって
不可能はないからです」。このことを知った私たちは、

自分の中から、自分の思い通りに考えようとする
心を取り去られなければなりません。なぜなら、人間は

いつも、自分たちの考えられる範囲でしか信じよう
としない自分勝手さがあるからです。そして、いつも

自分の都合を優先し、全能主の考えに心を合わせよう
としないのです。


 ところが、マリヤさんはどうであったでしょうか?彼女にとって、子が与えられることは、逆に

迷惑な
告知でした。なぜなら、ヨセフと結婚を約束していた身でしたので、結婚前に子が生まれれば、

不品行な
女として退けられてしまうからです。それでも、マリヤは「私は主のはしためです。お言葉

通り、この身に
なりますように」と受け入れたのです。それは、「生まれ出る子は、聖なる全能主の

子と称えられる」
と聞いて、この申し出は、全能主にとって必要なことであることを、直感で感じ

取ったからです。また、「どんなことも、全能主にとって不可能はない」と信じる心を持っていた人

でもあったからです。ここが、
ザカリヤとは違うところです。即ち、信仰とは、「人間は、自分の思い

通りに生きる存在ではなく、全能主の
しもべとして、全能主の御心に素直に従うことが幸いだ」と、

信じ切る心を持つことです。ここが、マリヤ
さんが「アヴェ・マリヤ、幸いな女」と言われた所以(ゆえん)
です。確かに、マリヤも最初はザカリヤと同じように、「どうして、そんな事があり得ましょうか」と

疑いました。しかし、その疑いは、ザカリヤのように、子が与えら
れるように祈っていた訳ではありま

せんから、疑問を持つのは当然のことでしょう。しかし、彼女はその
疑問を不信仰の材料にしません

でした。逆に、御使いの言葉を信じる心を表したのです。このマリヤの心を私たちも持つべきです。

即ち、私たちの命の主人は、全能主であるという認識です。
確かに、この命は私たち自身のものです

から、私たちは日常生活の中で、自分たちの願いを実現して生きようと考え
ます。しかし、真実は、

「私たちの命は全能主のもの」ということです。このことは、創造という事実を通して
はっきりと分かり

ます。それを、頭ではなく心で理解しなければいけません。


(転)では、心で理解するとは、どういうことでしょうか。ロマ書12章2節を見ますと、「自分の

心を新たに
することによって・・・変えられ続けなさいとあります。「心を新たにする」とは、「御霊

に導かれた歩みを
しなさい」ということです。また、「変えられ続けなさい」という言葉は、現在受身

命令形
で記されていますので、「自分で自分の心を新たにする」というような命令ではなく、どこまで

いっても、受身の継続を表し
ますので、「御霊に導かれて、自分の心を新たに変えられ続けて行きな

さい」
という意味です。確かに
私たちはこの地上で生きている以上、私たちの体、すなわち肉は、全能主

に心を向けるよりも、世に心が
向きやすいことは事実です。しかし、御霊に導かれ、キリストに委ね、

キリストに信頼して行くならば、キリストが成し遂げて下さるのです。
その結果を通して、私たちは

変えられて行くということです。
それは、
「自分はキリストにあって生きて行く。だから、キリストに

委ね、キリストに信頼し、キリストに成し遂げて
頂く」と、心で定めることから始まります。その定め

が起こったら、あとは一心にそのために努力して行く
だけです。ピリピ3章12節を見ると、パウロ

さんは「何とかして獲得しようと懸命に努めています」と言いました。それをこの地上の表現にすると

「なにくそ精神、負けない精神」
のことです。人間は思い通りに
ならないと、すぐに諦めてしまう方向に

向かいますが、私たちはそれに逆らい、信仰によって「何とかして
獲得しようと懸命に努力して行く」

のです。それは、どこまでいっても、キリストが成し遂げて下さると
信じるが故の努力です。ここの

ところを、頭ではなく心で理解した定めた方をするのです。それをマリヤさんはしていました。です

から、「私は主のはしためです。だから、お言葉通りになりますように。」「私はその通りに致し

ます」
というのが、マリヤさんの生き方だったのです。
(結) 私たちも、この道に大胆に習って

いきましょう。そして「主のお語りになったことを、必ず成就すると
信じたあなたは、なんと幸いなこと

でしょう」
という言葉を、私たちもこの身で味わって行きましょう。全能主は、私たちの教会に、

聖霊の満たしを与え続けて下さると約束して下さいました。ならば、そのことをどこまでも信じて、

信じ切った幸いを証していきましょう。 


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