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2022年12月18日

罪人の自分に望みを置く事をやめて、
どこまでも主に信頼する事を徹底する

エペソ人への手紙 6:10~18


(起)エペソ6章12節の御言葉から、「罪人の情けない自分に望みを置くことをやめて、

どこまでも主に信頼する生き方を徹底して行くこと」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、12節を見ますと、「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、諸々の支配と、権威と、

この暗闇の世界の支配者たち、また天の領域にいる悪の霊に対する戦いです」
とありますが、悪霊は

私たちに対してどのように働くのかを、創世記3章から見て行きたいと思います。まず、悪魔はエバに、

「園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に全能主が言われたのですか」と尋ねました。それに

対して、エバは、「私たちは園の木の実を食べることは許されています。ただ、園の中央にある木の実に

ついては、『食べてはいけない。また、触れてもいけない。あなた方が、死んではいけないから』と、

全能主は言われました」と答えました。しかし、悪魔はそれを否定し、「あなた方は、決して死ぬことは

ないし、むしろそれを食べれば、あなた方の目が開ける」と、嘘を言いました。この「目が開ける」とは、

「我が開く」という意味であり、自分の考え、自分の思いに立ち、全能主から離れた心を持つようになる


という意味です。元々は、アダムとエバはそのような心は持っておらず、エデンの園の中では、全能主が

整えられた環境の中で自由に生きることが出来ました。ところが、悪魔はエバを誘惑し、あえて自我を

もって生きるようにし、自立する心を持たせて、人を全能主から離れさせたのです。そして、現在に至る

まで、アダムとエバの子孫である私たちも、全能主から離れ、自立する自我の中で「自分はこう考える。

自分はこう思う、自分はこうする」という考えに立っています。それらは全て、悪魔から入れ込まれた

全能主に逆らう罪となったのです。
そのことが分かったら、もう自分という者を信用してはいけません。

私たちは、自分で自分の命を造ったのではなく、全能主によって創造され、全能主に在って生きて行く

ように創られた者です。ですから、私たちはその原点に戻るべきです。即ち、悪魔に騙されて自我に

立った今の状態を否定し、エデンの園に置かれていた最初の状態に戻り、主に委ね、主に信頼する生き方に

帰って行くべきです。


(転)では、その生き方に帰るにはどうしたら良いのでしょうか。それには、まず、子供の頃から

大切にしてきた自我というものは、悪魔に騙され、悪魔の誘惑によって入れ込んだものだから、

それは、(けが)れた罪の性質だということをはっきりと自覚することです。そして、それを糞土の

ごとく思って砕き捨てるのです。しかしながら、悪魔が入れ込んだ自我を、自分の中から(つか)んで

捨てることは、私たちにはできません。そこで全能主は、「人にできなければ、わたしがするしか

ない」ということで、イエス様を遣わして、私たちの身代わりに罪の代価を払わせ、「この救いを

信じ受け取るならば、お前たちを受け入れる」と言って下さったのです。しかし、幾らイエス様を

通して救いを与えて下さったとしても、私たち自身が、悪魔から入れ込まれた自我を握り続けて

行くなら、どんなに
「主よ、主よ」と言っても、「わたしはあなたを知らない」と言われてしまい

ます。ですから、そんなものはパウロのように、ゴミとして捨てるのです。捨てるといっても、

完全に取り除けることはできませんが、「その肉の自我から離れて考える」という意識を持つ

ことはできるはずです。その意識が、私たちにとって「血肉に対するものではなく、悪の霊に

対する戦いです」と言われているメッセージです。
私たちは、今まで自我というものを大事に

して、これを失ってしまったら自分は生きて行けない
と思っていましたが、実はそれが自分に

とって呪いであり、その中で生き続けて行けば、先は滅びしかないと言う事を悟り切るべきです。

そのことがはっきりと分かったなら、もうそんなものに頼る必要はないのですから、パウロさん

のように、「自我のプライドはゴミだ」と悟るべきです。
その理解力をはっきりと持って、新たな

生き方を始め、「全能主に大胆に近づいて全能主に委ね全能主に信頼し全能主に成し遂げて

もらう」
という歩みを、大胆に始め出すのです。それは、もう自分に頼らず、イエス様に頼って

行くという新たな生き方です。その生き方を決断し、勇気をもって始めて下さい。全能主は、イエス

様のアオリストの救いを通して、特別にその道を与えて下さったのですから、その生き方に徹して

行きましょう。私たちは生まれながらに罪人であり、魔物を抱えていますから、そういう自分に

頼って何をやったとしても、それは結局罪人がやることで、全部罪の結果しか出て来ません。

ですから、何をするにも、自分に頼ってやるのではなく、イエス様に頼ってやって行くのです。


(結) こういうわけで、私たちの地上での生き方は、どこまでも主に委ね、信頼し続けて行くことです。

罪人の情けない自分が失敗したとしたら、それは自分の肉に頼ったからです。だから、その時は、

「主にあってもう一度やり直そう」と、心を切り替えて、イエス様に頼って一生懸命やれば良いのです。

どうか、罪人の情けない自分に望みを置くことをやめて、どこまでも主に信頼する生き方を徹底して

行きましょう。



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