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                                                                                                                              2022年1日30日


『心をガラッと入れ替えて

ルカの福音書19:1~10

(起) ルカ19章のザアカイさんの記事から、「心をガラッと入れ替えて、全能主の集大成を実現

するために、私たちの全てを捧げて行く」
ということを学んで行きたいと思います。



(承)
さて、今まで何度もお話ししている通り、クリスチャンにとって、どうしても必要なものは何かと

申しますと、「砕かれた悔いし心」です。なぜなら、この心がないと、全能主の御心に従えないから

です
「砕かれた悔いし心」とは、自分自身が罪人だと思い知って、「自分からは何一つ良きものは

出てこない、自分は完全にお手上げの者です」と認めたときに、全能主の前に初めて表われてくる心

「砕かれた心」
なのです。それは、「自分は、言い訳が一切出来ない罪人です。自分が罪人の張本人

です」と、はっきり
認めた時に、出てくる心だからです多くの人は、自分が罪人であることは頭で

は理解していても、いつも、なんだかんだと理由をつけて、自分を(かば)おうとしています。それは、

「自分の罪がえぐられ、自分は一切言い逃れの出来ない罪人だ」と断定するところまで、思い知らさ

れていないからです。しかし、一般的に
クリスチャンであるならば、自分は罪人だということは

分っているはずです。また、砕かれた悔いし心を
全能主が受け留めて下さる、ということも分かって

いるはずです。
それが信仰の始まりだったからです。ところが、時間と共に、救われた者は、罪人

であってはいけないと思い込み、自分の正しい行ないに
望みを掛けて行こうとするのです。そして、

「キリストによって罪が贖われなければ救われない」という
原点から離れいつの間にか、自分の

正しさを追求し始めるのです。
しかし、「罪人であると分かっていること」と、「自分は罪人だと

いう事実をはっきり認めていること」では、大きな違いがあります。多くの
人は、自分は罪人だと

漠然と思っているだけで、断定するところまで至っておりません。ですから、自分の
罪に甘く、自分の罪

をぼやかしてしまっているのです。



(転)では、自分の罪をぼやかして、自分は罪人だと断定しようとしないのは何故でしょうか。

それは、
自分は罪人であるという事実よりも、「自分はこうありたい」という、自分の肉の願望の

方が根強くある
ため、自分は罪人だと認めてしまうと、「自分はこういう人間になりたい、自分はあの

ように人から評価
されたい」という肉の願いを諦めなければならなくなるからです。だから、自分が

全面的に罪人であるという
現実を認めきれなくなっているのです。
人は、自分の肉の願望が達成でき

ないと、この地上で生きて行く目標を見失い、「自分はもうダメだ」という世界に入ってしまいます。

だから、クリスチャンでさえも、自分は
罪人であるという事実をぼかして、その現実を認める事を

せず、どこまでも自分の思いを追い求めて
行こうとするのです。
しかし、本来、罪人には、自分の

願望を満たすことの出来る力などありません。
私たちも、やろうとしても出来なかったという経験

を過去に何度も味わっているはずです。いくら頑張っ
ても、自分には限界があり、超えられない壁が

あります。その壁にぶち当たった時、その事実を潔く(いさぎよ)認めてお手上げすればいいのですが、私たちは、

「お手上げしたらもう終わりだ」という思いが働いて、なげ
やりになってしまうのです。しかし、

実は、そのお手上げが全能主の前に必要なのです。
なぜなら、そんな
絶望的な人間(罪人の頭)である

が故に、イエス様のアオリスト形の救いが与えられているからです。「アオリストの
救いは、たとえ

現在の自分自身が、罪人の汚れの中にあっても、現在の状態に関係なく、すでに過去に
おいてイエス様が

して下さった贖いは、自分の救いになっている」というものです。なんと、救いは完成
していると

いうことです。
だから、地上では罪はなくなりませんが、天に上げられる時、一切の罪が取り除か

れ、キリストと同じ姿に変えられるのです。私たちはここに望みがあるのです。ですから、それが


分かったら、「もう自分の肉の願望のために生きるのではなく、自分を救って下さった全能主とイエス様

ために生きます」と始め出すのが私たちの生き方です。私たちの心は、ガラッと変わって行かな

ければ
なりません。それが、今日お読みしたザアカイさんの心でもありました。ザアカイさんは、たくさん

のお金を
持っており、それによってみんなの前に大きな顔が出来ると思っていました。しかし、現実

は多くの人々から嫌われていたのです。ところが、イエス様と出会ったことによって、「そんな嫌わ

れ者の自分に、心を
留めて下さる御方がいらっしゃった。自分が一番欲しかったものは、これだ」と気付

いたのです。その瞬間
、「もう自分の肉の願望のために生きるのではなく、イエス様のために生きて

行きたい」という心に変えられました。だから、「自分の財産の半分を貧しい人々に施します。

また、もし誰かから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」と言えたのです。

私たちも、このザアカイさんのようにガラッと、心が入れ替えられなければ成りません。



(結)
どうか、私たちも全能主の前にお手上げし、観念しましょう。私たちは間違いなく罪人です。

(罪赦された、罪人の頭にすぎません) だから
、自分には頼れません。頼れるのは全能主しかいま

せん。この信仰こそが、「砕かれた悔いし心」であり、
全能主はそれでいいと言って下さっています。

そして、「そんなお前のためにアオリストの救いを与えた」と言って下さったので、私たちはそれを信じて

受け取ったのです。ならば、私たちの望みは、ここにあります
罪人には、自分の力では永遠に変わら

ない本物の願望を満たすことはできません。どうか、そのことを
悟って下さい
そして、「私たちの

本当の願いは、こんな罪人でさえも愛して下さる全能主の救いに感謝し
、ザアカイさんのようにガラッ

と心を入れ替えさせられて、全能主の懐に入れて頂くことです」
この本物の願望がイエス様によって

実現したなら、勇気を出して「天の望みに心を向け、全能主の集大成の実現のために、自分の全て

を捧げて行く」
そのために、残りの生涯をこの一本道に懸けて、邁進して行こうではありませんか。

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