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2021年5月2日  
『心を低くし、                 

天の御国を一心に目指して生きて行く事』

マルコの福音書14:3~9


(起)マルコ14章3~9節から、ベタニヤのある一人の女性がイエス様に香油を注いだところ

から、
「心を低くし、天の御国を一心に目指して生きて行く事」を学んで行きたいと思います。


(承)
さて、イエス様の十字架の死が近づいた頃、ベタニヤに退いたイエス様は、らい病人シモンの家に

招かれて食卓に着いていると、一人の女が香油の入った石膏の壺を割り、イエス様の頭に(あふ)れるばかり

注ぎました。しかし、イエス様に香油を注いだのは彼女が初めてではなく、彼女よりも前に、罪深い

女も
同じ事をしていました。(ルカ7:36~)(マルコの記事の女性は、ヨハネ12章のベタニヤ

のマリヤとは
別人です)恐らく、このベタニヤの女は、罪深い女が香油を塗った話ぐらいは聞いて

いたと思います。ですから、普通なら、「自分も周りの人たちに陰口を(たた)かれるのではないか」

という不安を持ち、イエス様に香油を注ぐことを躊躇(ちゅうちょ)したかも知れません。しかし、この女は、

そんな思いを持つ事もなく、純粋な気持ちでイエス様に香油を注ぎました。すると、案の定、ある

人々は憤って、「高価な香油を何のために無駄にするのか」と言って彼女を厳しく咎めました。

しかし、イエス様は、「彼女はわたしの体に油を注いで、予め葬りの用意をしてくれたのです」

言って、彼女がした行為を受け留めて下さいました。実際、この女が葬りの用意として、そこまで

したのかというと、恐らくそうではなかったと思います。何故かと申しますと、この出来事はイエス

様がエルサレムに入城なさった後の事ですから、「いよいよイエス様がユダヤ人の王として立たれる

のだ」という期待感を持つのが、この当時の一般的な感覚でした。ですから、
頭に油を注ぐ習慣は、

ユダヤ人の王となる者への行為であって、「葬り」というより、イエス様への尊敬と王となる者への

備えであったと考える方が自然です。しかし、イエス様が死ぬ為の準備と言われたことは、
全く逆の発想

でしたから、この女がその理解力を持ってしたとは考えにくいでしょう。しかし、一介の女が何故ここま

で、このような大胆な事が出来たのでしょうか?それは、彼女の心の一心がイエス様に向いて
いたからで

す。当時の習慣では、祭司が王となる人物に油を注ぎますが、この女の場合は、御霊の導きもあって

このようにしたのでしょう。御霊の導きは、時にはこの世の常識と大きくかけ離れている場合もあり

ます。しかし、大切な事は、この世の常識で正しいか正しくないかではなく、全能主の前にあって正しい

か、
正しくないかです。彼女は全能主に真っ直ぐな心を向けたので、人目を気にする事無く、大胆に

行動に移す事が出来たのでしょう。そして、この行為が全能主の側では、葬りの用意として、父なる

全能主がイエス様に、死の備えとして起こしたことなのです。そしてその為に、この女が用いられた

のです。


(転)では、私たちも、天の御国を目指して生きて行くクリスチャンとして、常に全能主の側から

物事を見て行動して行くためには、どうしたら良いのでしょうか。
それは、先週も学んだ通り、

まず「心の低い者となる」事です。その上で天の御国を目指して行くのです。それは、どういう事

かと申しますと、私たちは信じる以前から「正しく生きなければならない」、それは「出来る・出来

ないではなく、正しい生き方を目指して行く事は正しい
」という教育を受けて来ました。だから、

自分の心の中に魔物がいる現実を棚に上げ、如何にも正しい者かのように誤魔化し、出来る出来ないは

別として、正しい生き方を目指して行く事は人間として良い事だと、思い上がって生きて来ました


そして、その意識は、クリスチャンになってから更に強くなり、「全能主は清いお方だから、
その

お方を信じた私たちは、清く、正しい道を歩むのは当然だ」という中で生きようとしているのです。

ところが、実際には、信じてもなお罪を抱え込んでおり、正しい道を歩もうと思っても、それが出来

ない現実があります。だから、世界中の多くのクリスチャンが、ここで救いの確信を失い、クルシミ

チャンになってしまうのが現状です。しかし、そんな中で今、はっきりとお伝えしたい事は、「全能主

に受け
入れられる者は、『砕かれた悔いし心を持つ者』即ち、心の低い者である」という事です。心の

低い者
とは、正しい者、褒められる者、ではなく「むしろ怒られる者、馬鹿にされる者、惨めな者、弱い

者、能力の無い
罪人である」という事実を正直に認めた生き方をすることです。イエス様は、その

ような「心の低い者になりなさい」語って下さいましたので、私たちは、見栄を張って虚栄に走る

のではなく、「どんなに正しい道を目指しても、その道に行く事が出来なかった情けない者で、魔物

を抱えた事実を消すことも出来ず、生まれながらに罪人です」という現実を正直に認めて良いので

す。
しかし、その事実を正直に
認めると、「そんな自分では駄目だ」と、心の中に葛藤が襲って来て、

惨めな自分を味わいたくないという
気持ちになります。しかし、罪人はそのように苦しんで落ち込む

のは当然なのです。何故なら、私たちの罪は、現実に自分自身の目の前にいつもあるからです。

だから、どうしようもない罪人の自分に自己嫌悪を感じ、自分の性格が嫌で死にたくなるぐらいの

気持ちで丁度なのです。
逆にそういう自分自身
から目を背けて、罪を棚上げする方が間違ってい

ます。私たちの罪の事実は、どんなに消したいと
願っても消せません。だから、私たちはいつまでも

自分の罪に苦しみながら、心の低いままで命を閉じるのです。
という事は、私たちが全能主の前に

持って行くものは、心の低い自分自身しかないのです。
しかし、イエス様は「そういう心の低い者

でいい」と(おっしゃ)って下さり、こんな罪人にイエス・キリストの贖いがあるのですから、私たちは、

ありのままの心の低い者となって、一心に御国に心を向けていくのが、私たち
に与えられた救いなの

です。



(結)こういうわけですから、私たちは天の御国に目を向けて、御国に入れて頂く事が、罪人の唯一

の望みなのですから、ひたすら、その一心で生きて行くことです。
残りの地上の生き様は、全能主

の前に自分の出来る限りの事を精一杯やらせてもらえば、それで良いのです。全能主が「これを

やってくれ」と言われたら、その実現のために、この命を精一杯使おうとすることです。もし、

そこで香油を注いだ女の
ように、周りの人々から文句を言われたとしても、気にする必要はありま

せん。罪人は全能主に心を向けて「心を低くし」、罪人の事実を受け留めて行けば、それでいいの

です
地上で人に認めて貰うことが、全能主に認められることでは無いからですですから、クリ

スチャンの生き方は、この世の人とは正反対です。なぜなら、私たちは天の御国を一心に目を向け

ている者ですから。それで良いのです。それがイエス・キリストの贖いによって救われた者の強さ

です。どうか、罪人である事実を正直に認め、それ故に「心を低くし、天の御国を一心に目指して

生きて行こう」
ではありませんか。
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