2021年5月16日
『全能主の中にある真理の二面性』
ローマ人への手紙4:7~8
|
(起)ロマ書4章7~8節を通して、全能主の真理の二面性について学び、「御国を目指して、
大いに喜んで、福音を伝えて行く事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、まずロマ書とはどういう書簡かと申しますと、書き出しに「キリスト・イエスのしもべ、
パウロから、ローマにいる全能主に愛され、召された聖徒たちへ」とありますから、この手紙は、
ローマにいるクリスチャンたちに宛てて書かれた事が分かります。しかし、ローマには異邦人の
クリスチャンとユダヤ人のクリスチャンがいますので、そこのところを意識しながら読んで行く必要
があります。まず1章は誰に対して語られているのかと申しますと、18節に「福音の中に全能主
の怒りも明らかにされています。それは、不義をもって真理を阻もうとする人間のあらゆる主を
敬わない心と不義に対して、天から啓示されている」とあります。「主を敬わない不義」という
事に関しては、ユダヤ人も異邦人も同じですから、これは全世界の罪人に対して語られている
内容です。そして2章は、16節まではどちらかと言えばユダヤ人に向けた内容のように読み
取れますが、はっきりと書かれてはいませんので、異邦人の聖徒たちも含まれていると考えて
良いでしょう。17節からは完全にユダヤ人をターゲットにして書かれており、3章からは、
ユダヤ人への指摘と、それに対して彼らが抱きそうな疑問とその答えを、パウロ自身が提示して
行くという書き方をしています。その中でパウロが一番伝えたい事は、「人間は罪人だから、
行いによっては救われない」という事です。ユダヤ人は、「自分たちは律法を持っており、正しい
教えを知っている。そして正しい事をやろうとしている。だから、自分たちは正しい」と考えて
います。でも、それが根本的に間違っているとパウロは指摘しているのです。確かに、ユダヤ人は
一生懸命律法を守ろうとしていた人たちでしょう。ところが、その「律法を誇りとしながら、
自ら律法に違反して、全能主を侮っていました」(2:23)。だから、「外見上のユダヤ人が
ユダヤ人ではなく、人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、心の割礼こそが本物の割礼です」
(2:28~29)、と語っています。そこには、どうしても律法を守り切れないユダヤ人の現実
があったからです。なぜなら、アダム以降の人間は、生まれながらに罪人だからです。私たちは、人間
として存在した時点で悪人であり罪人です。だから、いくら正しい事をしようとしたとしても、それは
罪人がやる事ですから、正しい事なんてあり得ません。確かに私たちは、時には人に喜ばれる事
もやるし、正義感から良い事もやるでしょう。しかし、実際は、義人かと問われれば、私たちは
罪人で、そこにはいろんな損得感情が入っており、計算ずくのところもあるのです。ですから、
いくら正義感を持ってやろうとしても、完全には出来ません。だから、「義人は一人も居ない」と、
その現実を指摘しているのが、このロマ書なのです。
(転)こういうわけで、私たちは完璧に真っ黒な罪人なのですが、その真っ黒な罪人の中に一点
だけ光が差している部分があるのです。それは、「イエス・キリストによって罪から贖い出され
た自分です。」イエス・キリストの贖いに与っている者は、全能主が良しと見て下さる救いの
光があるのです。4章7~8節を見ますと、「自分の不法が赦された者、自分の罪が覆い隠され
た者は、幸いである。主が罪を数えない、その人は幸いである」とあります。普通なら全能主の
前に「罪が覆い隠される」なんて事はあり得ません。しかし、全能主はイエス様の贖いの故に
このように言って下さるのです。それは、全能主の中にある真理の二面性がある故に、このように
言われているのです。一面で考えたら、罪人は滅ぼされるだけの者でしかありません。でも、
そんな罪人が救われるのです。そして、「主が罪を数えない。罪を問わない。罪を二度と思い出
さない。」と言って下さるのですから、これは全能主にしか出来ない真理の二面性です。
又、これこそが恵みです。この世では、いつまでも罪を数え続けられてしまいます。人が罪を
犯し、その報いを満了したとしても、「おまえには前科があるからな」と、色眼鏡で見られます。
また、人の罪を寛容に受け入れる人でも、もし自分の罪が指摘されると「私はお前を赦してやった
のに、お前は私を裁くのか」と恩着せがましく、相手の罪をねちっこく指摘します。しかし、全能主
は「罪を数えない」と言われたら、永遠に数えないのです。本来は、全能主は厳しく罪を裁く方
であるはずなのに、憐れみ深く罪を覆い隠す方だと言われます。これは究極の二面性です。
私たちは、その二面性によって罪赦されたと分かったら、主に遜り、涙を流して喜べるのでは
ないでしょうか。遜りとは、「ひかえめでつつましやか、驕り高ぶらず素直な事」です。
全能主は、その謙虚な心、即ち、遜った砕かれた心を見た時に、「罪人がへりくだって罪人の事実
を認めているのなら、それでいい。イエスの故に、お前の罪はもう数えないから御国に来なさい」と
言って下さるのです。それが全能主の愛の心です。
(結)これが分かったら、普通はこんな赦しはありませんから、全能主がキリストの故に下さる
赦しに、「心からありがとうございました」という感謝と、全能主からの救いに涙が出て来ます。
また、それと同時に「こんな私でも御国を求めて良いですか」と問う時、「わたしは、キリストの
贖いの故に、お前が罪人であっても、アオリスト形の『罪から解放された者』として、お前の罪は
数えない(ロマ4:8)。そして、キリストと共に生きる為に甦らせたのだ。お前は私をアバ父と呼ん
で良い。」そして「お前は『キリストと共同相続人』(ロマ8:17)だから、御国に来て良いの
だよ」と言って下さるのです。すると、私たちの心は前向きな心になり、御国に入れて下さると
確信が持てるのです。
しかし、昔のキリシタンの人たちは、一生懸命御国を目指して殉教して行った人々でしたが、
ほとんどの人が御国に入れてもらえると、確信を持つことは出来ませんでした。なぜなら、カト
リックのメッセージは律法的で、常に行いを求められていました。だから、「御国に入れてもら
える」という教えは確かにありましたが、罪人の人間に行いを求められても、命閉じるまで罪は消え
ませんので、自分の罪深さの故に、確信を持つことが出来なかったのです。彼らは、みんな激しい
迫害の中にあり、また人間の罪を悪魔から訴えかけられて、確信を失うのは今でも同じですが、
カトリックでは、戒めがたくさん入っていましたので、真面目な人ほど苦しんでいました。
だから、誰一人確信を持てなかったのです。それは、律法の下にあった旧約の人々と、キリストに
よって律法から解放された人々との、二面性が分からなかったからです。ところが、今、私たち
は「御国に入れてもらえる」と確信を持って信じる事が出来ます。何故なら、全能主の罪に対する
厳しい怒りも啓示されていますが(ロマ1:18)、イエス様の贖いの故に、全能主は私たちの罪
を、「もう二度と思い出さない」、「罪を数えない」と言って下さる、全能主の二面性が有ることを知った
からです(ロマ4:6~8)。私たちは、その救いの中にあるのです。ですから、どうか「へりく
だった砕かれた悔いし心」の中で、一心に御国を目指して生きて行こうではありませんか。これが
分かると、御国へ入れて貰うことは「感」ではなく、確信を持って求めていけるのです。だから、
キリシタン時代の人々は、御国に希望を抱いて命を閉じていったのですが、彼らには律法が入って
いましたので、罪の現実を抱えていた人々には、希望ではあっても確信ではなかったのです。
しかし、私たちは、全能主の中に真理の二面性が在ることを知り、「救いはアオリスト形で、
現在の自分の状態に関係なく、キリストの身代わりの死の故に全能主が罪を数えないと言われ
たら、その通り信じて行けばいいのだと分かります。」なんと感謝な事でしょうか。涙が出て
来ます。また、この救いに預かっている事が分かったら、確信を持って福音を語ることが出来ます。
ですから、罪人であることを正直に認め、罪人でも御国に入れて貰える恵みを、大いに喜んで福音
を伝えて行きましょう。
|
|