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2021年4月18日

私は罪人ですが、キリストの贖いがあります

マルコの福音書4:35~41


(起)「私は罪人ですが、キリストの贖いがあります」という所に立ち、そこに「絶大な

自信を持って、信じる生涯を貫いて行くこと」
を学んで行きたいと思います。



(承)さて、ある日の夕方、イエス様と弟子たちは舟に乗って湖に出ると、激しい突風が起こり、

波が舟の中に打ち込んで、水が一杯にあふれて来ました。しかし、そんな危険な状況の中にあって

も、イエス様は舟の後ろで(まくら)して眠っておられました。そこで、弟子たちはイエス様を起こし

私たちが(おぼ)れて死にそうでも、気にならないのですか」と訴えました。すると、イエス様は

起き上がられ、風と湖を叱り、嵐を静められたのです。そして、弟子たちに対して、「なぜそんなに

怖がるのですか。どうして信じる心がないのですか」
叱られたのです。それは一体、どういう事

だったのでしょうか。はっきり言って、こんな状況の中に置かれれば、怖がるのは当然です。

しかし、「どんなことでもお出来になるイエス様が共におられるのだから、怖がる必要が無い」

いう霊的な考え方も、分から無い訳ではありません。しかし、現実に波が押し寄せ、舟の中に水が

一杯入り込んで来ている状態では、「イエス様を起こして、助けて下さい」と叫ぶのは、自然の

成り行きだと思います。それでもイエス様は、「何故怖がるのですか」と言われたのですから、

弟子たちにとっては、今にも舟が沈みそうなのに、信仰によって賛美していたらよかったのでしょう

か?
先日のイースターの日に、ある教会では大きな声を出して賛美をしていた為、コロナに感染

し、クラスターが起ったと聞いています。この(よう)な時、教会では「復活された主を賛美するの

だから、その信仰を主が喜ばれ、コロナの感染から守って下さるはずだ」と考えるのが、「信仰的だ」

と見るべきでしょうか?実はこの教会の不謹慎(ふきんしん)な集会の在り方に、県知事は怒っていたようです。

また、これによって全国のキリスト教会に迷惑を掛けたことは(いな)めません。では、この嵐の中で

イエス様が語られた言葉をどう理解するのが、正しいのでしょうか?まず、「イエス様は正しい。

聖書は正しい」という前提を崩すことは出来ません。ですから、このイエス様の心を前向きに捕ら

えていく必要があります。
すると、弟子たちは一体どういう気持ちになっていれば良かったの

でしょうか? 霊的な目で考えた時、彼らが、
「嵐で命閉じてもいいや」という気持ちになってい

たら、どうだったでしょうか。なぜなら、イエス様は、天の御国に入れて下さる為に来られた御方

です
。ですから、主を信じていた弟子は、「いつでも天の御国に入れて頂ける」と信じ、この死と

隣り合わせの時にも、恐れを感じて腹立ち紛れに、イエス様に泣き付くのではなく
、むしろ
信仰に

よって前向きな心で「主よ、この嵐を沈めて下さい。あなたはそれがお出来になります」
と、イエス様

(うった)えたとしたら、どうだったでしょうか。主はその前向きな信じる心を喜ばれ、状況は変わって

いたかも 知れません。福音書では、イエス様が「あなたの信仰があなたを癒やしたのです」と、

喜ばれて癒やされている所が多々(たた)あります。私たちも、こういう場面に遭遇した時、イエス様を

信じている者として、「たとえ今、命閉じても御国に入れていただける。」それなら、「いつ、命

閉じてもいい」という気持ちになっていたら、腹立ち紛れで「死にそうでも、気にならないのです

か」という、言い方をして訴えることはしないでしょう。この
「天の御国に入れて頂ける」という 

気持ちが、ここでイエス様が言われた「信じる心」なのです。
でも、イエス様はどんな場合でも、

「いつ死んでも良い」と考えておられた訳ではありません。この嵐に遭遇する前に、多くの群衆が

イエス様の話を聞きに集まって来ていました。そして、癒やしを必要としていた人々を皆癒やされ

た、と記されています。ですから、イエス様は、誰に対しても「いつ死んでも良い」と考えていた訳

ではありません。これは、弟子たちの信仰の訓練と見るべきでしょう。


(転)では、その「いつ、命閉じてもいい」という心を、私たちも前向きに持って行くにはどうした

ら良いのでしょうか。本来なら、私たちはイエス・キリストを信じたクリスチャンとして、普段から

その心を持って生活して行くのが一番ふさわしいと思うのですが、それはなかなか難しいのが現実

です。何故かと申しますと、私たちはイエス様を信じても、なお罪を抱え込んでいるからです。

イエス様は罪人に対する贖いをして下さり、私たちはそのことを信じました。ですから、信じた

その時に、自分の中から罪が消え去っていたら
、「自分はイエス様の贖いを通して 罪から解放さ

れた」という実感を持てたはずです。すると、「いつ死んでも、天に行ける」と確信を持つことが

できたでしょう。
ところが、私たちは実際に信じても罪は消えることはなく、過去に犯してきた罪

と同じように、現在もなお犯してしまう者であり、これから後も、同じ罪を犯してしまう可能性が

あるという現実を抱え込んでいます。過去も現在も未来も、私たちは命閉じる時まで、自分の罪から

逃れることができません。だから、私たちは救われたという実感がないので、救いの確信を持つこと

ができないのです
。しかし、今日、はっきりと意識して頂きたいのは、「私たちがどんなに罪人

でも、キリストの贖いは事実であり、私たちはそのキリストの贖いの故に、全能主が受け入れて

下さっている」という事実です。
全能主は、私たち自身が罪人であることの自覚を持ち、その中で

苦しんで、「自分の力ではこの罪をどうすることもできない」という現実を思い知ったなら、

「そういう者のためにイエスを送ったのだから、それでいい。わたしはお前を蔑まない」と仰って

下さるのです。なぜなら、現実の救いは、イエス様が天から下って来る時に起るからです。

そこに自信を持って頂きたいのです。
即ち、罪人である自分自身を棚上げにして自信を持つのでは

なく、罪人である自分自身をはっきりと認めているが故に、「イエス・キリストの贖いがある」と

自信を持つのです。
もしその心を持ったなら、私たちは「いつ、命を閉じてもいい」と思えるよう

になります。それが、私たちにとっての救いです。



(結)だから、まずは、「自分は罪人である」という事実を嫌がらずに、素直に認めて下さい。

多くのクリスチャンは、「罪人であってはいけないとか、罪人呼ばわりされてはいけない」と思っ

て、「正しく生きて行かなければならない」という強迫観念に捕われています。しかし、もし自分

の努力と熱意で正しい人間になることが出来たなら、初めからイエス様の贖いは必要なかった(はず)

す。ですから、その考えは間違っています。私たちは、イエス様を信じたからといって、
罪赦された

罪人にすぎません。
だから、正しい人間に成ったり、褒められる人間に成ったという訳ではありま

せん。私たちは、命閉じる時まで罪人ですから、叱られて、非難されて、馬鹿にされて、当然なの

です。ならば、怒られることがあっても、それに反発してはいけません。むしろ、素直に謝り、心

開いて(へりくだ)って行くべき です。そして、自分は罪人であるという事実を嫌がらずに素直に認めて

行くなら、そこにキリストの贖いがありますから、前向きになれます。
それは、患難時代の中に

あっても同じです。私たちは、良い人間になって勝利を得るのではなく、「私たちは罪人です。

しかし、キリストの贖いがありますから、いつ、命を閉じても構いません」という信仰で勝利を

得るのです。
そうすれば、最後まで信仰を告白して、666に勝利することができるでしょう。

どうか、「私は罪人ですが、キリストの贖いがあります」という所に、いつも立ち、そこに

「絶大な自信を持って、信じる生涯を貫いて行こうではありませんか。」


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