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2021年4月11日

キリストの贖いに自信を持って

ヨハネの黙示録21:1~7

(起) 黙示録21章1~7節の箇所から、「キリストの贖いに自信を持ち、新しい天と新しい地を

目指して、信じる信仰を生涯貫いて行くこと」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、いつもお話しすることですが、黙示録は、「勝利を得る者となりなさい」という目的

で書かれた書巻です。ですから、黙示録のこの幸いなメッセージは、クリスチャンと言えども

「信じているか、信じていないか」分からないようなグレーな信者に対してではなく、明確な信者

(信仰による勝利を得る者)が受ける幸いな約束について書かれている書物です。

では、この明確な信者とは、どのような信者かと言いますと、まず「人が言い逃れの出来ない罪人

であることを心から認め、キリストが罪の代価として注がれた
「贖いによる救い」を信じている

こと。
すなわち、自らを義人であると思っている人に対する救いではありません。また、自分は

真面目で一生懸命に誠実に生きていると思っている人のための救いでもありません
明確な信者

とは
「自分は行いによっては救われない」ということを、嫌と言うほど思い知らされ、「完全に

お手上げです」と、
100%罪人であることを認めきっている信者のことです。そして、自分には

イエス・キリストの贖い以外には、生きるすべがありません、と明確に悟った者のことです。


ですから、そのことを明確に認め切っている人は、自分の罪を指摘されても、反発したり、むくれ

たりせず、また落ち込んで腐ったりせず、或いは自分が気づいていなかった罪を指摘されても、

反発せず「当然の指摘です」と素直に遜って認める事の出来る人です。そして、イエス・キリスト

の贖いを明確に信じていますので、「砕かれた、悔いし心」を持って、自分の弱さに逃げ込むことも

しません。ただキリストに頼って、その弱さを認めつつ、一生懸命前向きに取り組もうとする人

です。こういう人が、明確な信者なのです。こういう明確な信者は、患難時代を通って行く中でも

その試練に腹を立てず、むしろ罪人が受ける()たり前の試練だと受け留め、自分の命を主に

明け渡して 「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、命の冠を与えよう。」と言われている、

イエス様の御心を前向きに認めて行く事の出来る人です。ですから、そういう人は
「勝利を得る

クリスチャン」となるでしょう
しかし、クリスチャンであっても、「自分が罪人だ」ということ

を明確に認めていない人が多くいるのも現実です
。なぜなら、多くのクリスチャンは、救われたの

だから、罪人であってはいけないと思い、罪人呼ばわりされないように、正しく生きて行こうと

思っている人が多いからです。こういう人は、自分の努力で正しく生きて行けると思っている人

なので、自分の正しさと、自分の努力で自分を救えると思っているのです。もし、それが出来る

と思っているなら、キリストの贖いは()らないことになります。また、その人はキリストを

信じても、自分が生まれながらに罪人であることを認めていないことになります。だから、罪を

指摘される事を嫌がっており、怒られることを素直に受け留められないのです。その原因は、依然

この世の考え方に影響を受けており、キリストの救いの中で生きていないからです。この世の中で

まともに生きていても、自分の罪は決して消すことは出来ません。なのに、虚栄を張ってでも、

自分の正しさを主張し、生きていこうとしています。そういう人は、この社会で情けない人間だと

レッテルを貼られるのを恐れているからです。だから、自分の罪を棚上げにして、「一生懸命努力

しますから、私を認めて下さい
」という間違った方向に向かうのが、正しい生き方だと思っている

クリスチャンが多いのです。
しかし、「私は、一生懸命努力しますから、私を認めて下さい」と言え

るなら、自分で自分を救えるのですから、その人のためのキリストの贖いは必要ないでしょう。

しかし、聖書の中で、はっきりと言われていることは、罪人が、自分の罪をはっきり認めるなら、

全能主は、その人の「砕かれた悔いし心を蔑まれない」と言われていることです。この「砕かれた

悔いし心」とは、自分の罪を棚上げにせず、「自分は真っ黒な醜い罪人です」と正直に認めている

人のことです。全能主はその者を決して軽んじられません。何故なら、全能主はそういう者のため

にイエス・キリストを遣わし、贖いをして下さったからです
。そのイエス・キリストの贖いがある

が故に、真っ黒な醜い罪人でも生きて行くことのできる道があるのです。それは、「贖いをして

下さったキリストに頼って生きて行く新しい生き方です
」即ち、自分の力に頼って生きて行く

のではなく、自分は「一生懸命やろうとしても出来ない者でした」と、生まれながらに罪人で

あったことを認め、実際には何も出来なかったダメ人間であることを認めていくのが、本物の

クリスチャンだからです。そうすれば「罪人のために贖いをして下さったイエス様が私の全て

です」
という所に立つことができます。このように、イエス・キリストの贖いに対して自信を

持って生きて行く者
こそが、明確な信者なのです



(転)では、その明確な信者が最後に行く所はどこでしょうか。それは、新しい天と新しい地、

聖なる都エルサレムです。今私たちが目にしている天と地は、サタンが支配している古い世界で

すが、その古い世界を全部引き払って、全く新しい天と新しい地に行くのです。そして、21章

3節、4節を見ますと、「全能主の幕屋が人と共にあり、全能主が人と共に住み、人は全能主の

民となり、全能主自ら人と共にいて、人の目から涙を全く拭い取って下さる。もはや、死もなく、

悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、既に過ぎ去ったからである
」とあり、7節には、

勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の全能主となり、彼はわたしの子と

なる
」とあるように、私たちの目指す所はここなのです。だから、もう古い自分自身に心を向ける

必要はなく、自分の虚栄心に心を奪われる必要もありません。生まれながらに情けない自分こそ

が、実際の自分であり、「その通りだ」と認めて、見栄を張ろうとする我を砕いて行ったら良い

のです
。それにあえて(あらが)って、「ダメな自分を変えなければならない」なんて考える必要は

ありません。私たちが罪人である事実は、命閉じる時まで変わりませんので、そのまま認めて

「砕かれた悔いし心」を持って行けば、それで良いのです
。そこにイエス様の贖いがあるという

事実の故に、こんな罪人でも、全能主の御国に行かせて頂ける約束があるからです。



(結)どうか、私たちのような真っ黒な罪人にも、イエス・キリストの贖いがあるのですから、

そのことに対して自信を持って
、どこまでも信じて従って行こうではありませんか。私たちは、

悪魔に怯えて臆病になる必要はありません。また、自分のプライドを守る必要もありません


私たちは、「自分にはイエス様の贖いがある」という事実の故に、自信に満ちた信仰を悪魔に

突き付け、666に対して勝利を得るのです
私たちにはイエス・キリストの贖いがあるのです

から、そのことに対する絶大な自信を持って、新しい天と新しい地を目指して、信じる信仰を生涯

貫いて行こうではありませんか。
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