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                                                                                                                              2021年12月19日

全能主に召された者は、
主の栄光の為に自分の命を用いて行く

第Ⅱテサロニケ2:13~15

(起)第Ⅱテサロニケ2章14節の御言葉から、「全能主に召された者は、全能主から養子縁組され

たことに自信を持ち、この地上にある残りの生涯を、主の栄光の為に自分の命を用いて
行く事」を学んで

行きたいと思います。



(承) さて、テサロニケの教会は、第一の手紙を見ると、「偶像を捨てて全能主に立ち返り、生け

真理(まこと)の全能主に仕えるようになった教会です」とあります。そんな彼らは、「喜びを持って福音を

受け
入れた」という人々ですから、単なる口先だけではなく、本気で信じた人々の集まりだったのです

ですから、まさに彼らは、福音によって全能主に召された教会として、聖く傷のない者とされ(第Ⅰテサ


ロニケ3:13)、キリストに対して一途であったのです(第Ⅱテサロニケ3:2)。このことは、

同じように
私たちの教会にも当てはまります。なぜなら、幸いにも私たちは福音を聞き、イエス・

キリストという
お方が私たちの罪の償いをして下さり、アオリスト形の救いを下さったことを知りました。

しかも、全能主は、イエス様の血によって私たちを聖めて下さり、私たちを聖く傷のない者として全能主

が養子縁組
して下さり、私たちは全能主の家族の一員として、召された教会だからです。



(転) しかしながら、キリストの救いはアオリスト形ですので、私たちが本当の意味で聖く傷のない者

されるのは、イエス様の再臨の時、イエス様と同じ姿に変えられる時なのです。ですから、その時には


私たちは聖く、傷なく、非難されるところのない者として、天に迎え入れて貰えます
ということは、天に

上げられるまでの間は地上にいますので、全能主の家族の一員とされていても、相変わらず生まれながらの

肉の性質を持っており、罪の影響を受けている者です。しかし、それでも古い肉に囚われ、自分に頼って

地上の損得の中で生きることは、養子縁組された者として失礼なことです。先週も学んだ
ように、全能主は

私たちを養子縁組するために予め定めて下さっていたのです。それが、たとえアオリスト形であったとし

ても、私たちが全能主の家族の一員とされていることは事実なのですから、古い肉の考えを退け、新しい

全能主の考えの中で生きるべきです。こういう訳で、私たちの教会は既に全能主の家族の一員とされた者

として、全能主が自分の子に対して「お前はわたしのために働いてくれ」と、全能主から声がかかってい

る教会なのです。
即ち、バイブルランドノアの箱舟ミュージアム10万名教会を建て上げ、最終的

には患難時代において666に、はっきりと主を信じる心を突き付け、全能主の御国に引き上げて頂く者

として、召しを全うする教会なのです。ですから、私たちはその
召しを受け、その中に歩み始めた者

として、最後までその信仰の生涯を一途に通して行くのです。迷っている暇はありません。患難時代に

入れば、地上では様々な苦難がやってきます。その中で、どっちつかずで生きて行けば、666の餌食と

なり、サタンの笑いものになります。又、患難時代の中を逃げまくって、最後まで生き延びて、キリスト

の再臨の時に空中携挙されることがあったとしても、
それより前に、初めから自分の信仰を明らかに

して、「私は全能主の子です。全能主を証しする者
です」と、自分の立場を明確にして行くことの方が

幸いです。私たちは、全能主の養子として、子に迎え入れられたのですから、全能主の家族の一員としての

自覚の中で、最後まで信仰の生涯を通して
行くのです。



(結) こういうわけですから、私たちは、今から自分の立ち位置をはっきりと全能主の側に置き、

その中で生きて行きます。私たちは、養子縁組された、全能主の家の人間、全能主の子です。だから、

未信者時代の実家のことは忘れて、どこまでも全能主を信じる者として、「主に信頼せよ、主が成し

遂げて下さる」と信じて、信頼して行くのです。それを具体的に言うと、ミュラーさんの生き方を

真似ることです。それは皆、孤児院を開くということでは無く、徹底的に主に信頼した生涯を貫く

ことです。又、その信仰を真似て生きている牧師に対しても、同じ心を持って信頼することです。それは、

たとえ
泥を被ることがあったとしても、清濁併せ呑む心を持って従って行くことです。それが、へり

くだって受け止めて行く従い方です。どうか、この立場を一生涯忘れず、全能主の家の人問、全能主

の子であることに自信を持って生きて下さい。
そして、その中にあって、主の栄光を表すために自分

自身の命を使って行こうではありませんか。

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