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                                                                                                                           2021年10月31日

握りしめていた自分を手放す

使徒の働き6:3~7:2、46~60

(起)自分の手の中にしっかり握りしめていた自分を手放し、全能主の思い通りに生きていく献身を

決断し、聖霊に満たされて、全能主のために働いて行くこと」を学んで行きたいと思います。



(承)
さて、使徒行伝7章では、ステパノがメッセージをしている場面が記されています。

彼は、アブラハムの生涯、ヨセフの生涯、モーセの生涯、ダビデの生涯について、旧約聖書が示す

通りに語りましたが、その
一連のメッセージの中で、彼が一番言いたかった事は51~53節にあり

ます。それは、「あなた方の先祖たちは
聖なる方(メシヤ)が来られることを預言した預言者たち

を、殺す者となったのです。そして今、あなた方も
同じように、その聖なる方(キリスト)を裏切り、

殺す者となりました。だから、あなた方は律法を受けましたが、
それを守りませんでした」という

内容です。言い替えれば、「あなた方は悔い改めて、律法を守る者とならなければ
メシヤを殺した

大罪人として裁かれます」という内容です。
こういう聖書のメッセージを、クリスチャンである

私たちも読めば「イスラエルの民のように、頑であってはいけないから、全能主の前に正しく歩もう」

という気持ちにさせられて行きます。それは、「私たちも、全能主を信じたのだから、戒めに忠実に

ならなければならない」
という思いです。実は、聖書はいつもそういう方向に意識が向くような書き方が

されています。
例えば、モーセの時代、金の子牛を作って偶像礼拝をしたイスラエルの民に、全能主は

怒りを持って民に律法を与え
こう言われました。「この戒めを守るならば祝福する。しかし、この戒めを

破ればあなた方は呪われる」と。すると
イスラエルの民は皆、口を(そろ)えて「守ります」と答えました。

これは、はっきり言って全能主の(わな)()められたのです。
その時代のときには、民は「守ります」と

言わざるを得ない状況でした。もし、「守れません」と言えば、
全能主に反抗することになります。

だから、誰だって「守ります」と答えるのは当然です。しかしながら、もし
イスラエルの民がシナイ山

までの行程を振り返るなら、彼らは「全能主の戒めを必ず守ります」とは言えなかった筈です。何故なら、

全能主がイスラエルの民に律法を与える事になったのは、彼らがモーセを退け、全能主を
退けて「自分たち

を導く神を作ろう」と言って、金の子牛を作った事が原因です。なのに、彼らはまだ懲りずに、口先

だけで「守ります」と言ってしまったのです。本来なら、彼らは遜って「自分たちは全能主の戒めを

破って
きた者です。ですから、到底『守ります』とは言えません」と言うべきでした。しかし、そんな

ことを言えば、全能主
の怒りが爆発し、自分たちは滅ぼされてしまうと思ったのでしょう。しかし、

「守れないものは、守れないのです
。」 もし正直に言えば、全能主は、他の方法を示された筈です。

なのに、()えて「戒めを守ります」と(いき)がってしまったのです。しかし、人間は幾ら力んでも、すべて、

自分の思うようには成りません。それもその(はず)アダム以来、人間は罪の中に閉じ込めら

れてしまったからです。ですから、アダムの時から、人の心には魔物の
思いが潜んでいます。だから、

守ろうと思っても守れないのが現実なのです。それなのに、自分の命は自分のものだと思っている人は、

自分の力に頼って、出来ないのに「出来る」と思おうとしているのです
これが人間の(さが)(罪の傲慢)の

姿です。
人は、自分の中に魔物がいて、心の中に罪の思いがあると腹で分かっていても、それでも「やり

ます
」と言ってしまうのです。それは、私たちの中に「自分はできる」という部分を残しておきたい

からです。
なぜなら、
子供の頃からの教育は、根強(ねづよ)く私たちの心を支配しています。それは

私たちは100%罪人だと認めたら、生きていけない。だから、たとえ出来ないと思っても、

一生懸命、成果を表して行くように努力しなさい」と、
教えられて来たからです。それが日本の家庭の

教育であり、世界の教育でもあります。だから、私たち罪人でも
、「常に努力する事」が、正しい事と

して教えられており、それは言葉を替えると、「自分の力に頼って努力し、
自分の思い通りに生きて

いけ」ということです。ですから、私たちは、この傲慢の心を「悔い改めて、考えを入れ替える」べきです。

それは「自分の命は自分のものだと思って、自分の思うようにし、自分の手の中に握っている


ところ
から、「私たちの命は全能主が造って下さった命だから、自分の手から離して、全能主に

明け渡す」という方向へ転換するのです
このことが分かったクリスチャンなら、自分の命は自分

のものではありませんから、当然、全能主のものとして、手放して行きます。



(転)では、どうやって手放すのでしょうか?それは、「どのようにしたら手放せるか」と、自分

で一生懸命考えても、答えは出て来ません。答えを出しても、出来ないからです。それなら、そんな

罪人の自分を正直に見て、全能主にお手上げすれば良いのです。
私たちはいつも「どうやってやる

のか」と問われると、「このようにして、
やります」と、つい答えてしまいます。そう言わないと受け

入れて貰えないと思っているからです。でも、初めは
「やります」という気持ちになったとしても、

途中で嫌になって、やらなくなる事は目に見えています。だから、たとえ全能主から、「出来ません」

とは言えないような問われ方をされたとしても、遜って「そうしたいのですが、自分には出来ません。

お手上げです」と正直に言うべきです。実は、全能主が見たいのはその遜った「砕か
れた悔いし心」

なのです。
とは言え、この地上において、ただ「出来ません」とお手上げするだけでいいのか?

というと、そうではありません。この命が全能主によって造られたことが分かった以上、また、

イエス様の救いを
頂いた以上、私たちの内には、全能主のために何かしたいという願いが出て来ます。

その時には、イエス様に
頼って取り組んで行く姿勢が必要です。「出来ません」で終わらせるのでは

なく、今でもイエス様は生きて
おられ、私たちはイエス様にあって生きて行けるのですから、主に頼り

ながら「主に信頼せよ、主が成し遂げて
下さる」と、献身の心を表わして行くべきです。(献身の心

とは、自分が否定されても、固まらずに遜って、どこまでも心を開いて従って行くことです。)


そして、全能主に対して一生懸命やって行くのです。



(結)私たちの中には、「罪人だが、自分の力で何とかしなければならない」という強迫観念が子供

の頃から
あります。そして、自分の思い通りにやって成果を表す事によって、満足を得ようとするの

です。ところが、
それはどこまでいっても、罪の中に閉じ込められた人間のやる事ですから、全部間違い

です。だから、私たちは
全能主の前にお手上げし、自分で握っていたものを手放すのです。すると、

その先に全能主とイエス様が
おられます
。即ち、「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という所に

行けるのです。今の私たちに出来るのはここまでです。あとは、全能主の思い通りに生きていく献身を

表明し、聖霊の助けを頂いて、全能主のために
具体的に働かせて頂こうではありませんか。


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