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                                                                                                                               2021年10月24日


考えを入れ替えて

使徒の働き2:37~47

(起)考えを入れ替え、罪人だという事を素直に認めた中で、イエス・キリストを自分自身の

救い主とし、全能主を第一にして生き、そして全能主に聖霊の満たしをお願いし、使徒たちと同じ

ように使って頂く
」という事を学んで行きたいと思います。



(承)さて、ペテロはユダヤ人たちに向かって、「イエスは全能主がお立てになったキリスト

(メシヤ)である」
ことを宣言し、「そのキリストをあなた方は十字架につけて殺したのです」と、

はっきりと宣言しました。すると、
それを聞いたユダヤ人たちは、聖霊によって激しく心を刺され、

ペテロたちに「兄弟たちよ。私たちは、どう
すれば良いのでしょうか」と叫んだのです。そこで、

ペテロは、「考えを入れ替えなさい。そして、あなた方一人一人が罪の赦しを頂くために、イエス・

キリストの御名によって、バプテスマを受けなさい」
と言い、「この曲った時代から救われよ」と勧めて

います。本来なら、彼らは救い主を十字架につけて殺し、取り返しのつかない事を
してしまったのです

から、そこには絶望しかありません。ところが、ペテロはそんな彼らに、「キリストよりも自分


たちの方が正しいと思った、その曲った心を悔い改め、その罪を赦して頂くためにバプテスマを受けな

さい」
語っているのです。このバプテスマとは、水の中にドボンと浸かって罪の中に死んだこと

を表わし、また、キリ
ストによって生き返る事を意味します。イエス様も、十字架で私たちの罪の贖い

をされて死なれた後、三日目に甦られました。ですから、ペテロは、「イエス・キリストは復活したので、

そのキリストを信じれば、たとえ私たちが死んでも甦り、永遠の命に(あず)かるのです。」ですから、

「この方以外に救われる名はありません」
と、大胆に語り
ました。すると、その日3000人ほどの

人々がこの福音を信じて救われたのです。



(転)
しかしながら、なぜ人間は、「全能主がお立てになったメシヤを殺してしまう」という、恐ろしい

罪を犯して
しまったのでしょうか。それは、先週もお話しした通り、全能主は創造の初めに、人間

()えて罪の世界に落とすために、最初の人であったアダムとエバに「善悪を知る木の実だけは

食べてはいけない」と言われ、
その誘惑の木をエデンの園の中央に置いて、悪魔を使って彼らを罪

の中に落としました。ということは、全能
主がアダムとエバを罪の中に落とす為のお膳立てをした

ということです。また、モーセの時代には、イスラ
エルの民は悪魔に誘惑されて金の子牛を造り偶像

礼拝の罪の中に落とされました。その為、全能主は彼らを律法の中に落とし込んで、罪の中に雁字搦(がんじがら)

にされました。また、ヨブの時代には、全能主は悪魔がヨブを誘惑することを許し、ヨブを敗北させ

てしまいました。このようにして、この世界は、創造の初めから全能主が悪魔を使って、人を罪の中に

閉じ込めたのです
。ですから、この世界は、曲った世となり、私たちはその罪の世界に閉じ込めら

れたのです。このように、人間は、自分が罪人である事を認めるとか、認めないとかの問題
では

なく、初めから全能主の計画によって、罪の中に閉じ込められた罪人なのです
何故そうされたのかと

言い
ますと、全能主は悪意からそのようにされたのではなく、聖なる動機によって、人間への愛

として計画された
ことです。即ち、もし人間が義人のままであるなら、人間はルシファーと同じ

ように傲慢になり、裁きの中に
置かれてしまう危険があったからです。なぜなら、ルシファーは、

全きものの典型であり、美の極みでしたから、
彼は罪の無い者でした。しかし、そのルシファーが、

自分を全能主よりも高く置こうとして、傲慢になってゲヘナに
落とされる者となったのです。という

ことは、たとい人間が義人のままであったとしても、ルシファーのように
なれば、全能主は人間を

ゲヘナに落とすしかなくなります。そこで全能主が考えられたのは、人間をアダムの時から罪の中

に閉じ込め、人間が本当に罪を悔いて、砕かれた悔いし心を持って、遜ってイエス様の贖いを求める

ならば、アオリストの救いをもって、人間を天に引き上げ、御国の民にしようと計画されたのです。

一度罪の中に落ちる経験をした者は、たとえ救いを頂いて全能主の許に引き上げられたとしても、

決して
威張れません。また、傲慢になれません。ただ、悔いし砕かれた心を持って、キリストの贖いを

感謝し、御国の
民とされたことに、遜って行くだけです。これが、全能主の人間に対する愛であり、

全能主の御配慮なのです
それが分かったら、「ここまでして下さったお方の為に、何とかお役に立ち

たい。こんな自分を救って頂いたの
だから、その救いの中で生きて行きたい」という気持ちになる

筈です
その気持ちが心底出てきたら、自分自身の我よりも、全能主のお考えに心を向けて行こう

とする意識が生まれて来るはずです。それが、私たちにとって
砕かれた悔いし心なのです。自分の罪

を自覚して、自虐になって、自分はダメだと思う事が、砕かれた悔いし
心だと思ったら大間違いです。

砕くとは、自分の努力で砕くものではなく、真理を知って考えを入れ替える事です
即ち、罪に

閉じ込められた扉を、自分の努力でこじ開けようとするのではなく、イエス様の贖いによって開か

れた扉から、解放されていくのです。それは、自分の努力で思い通りにする傲慢の世界ではありま

せん。どこまでも、自分の罪はどうにもならないことを思い知ってへりくだり、考えを入れ替えて、

ただただ、全能主の愛の計画に徹して行くことです。この道理が分かれば、どこまでもへりくだって

主に仕えて行くことが、贖われた者の生き方だと分かるでしょう。それは、「主に信頼せよ、主が

成し遂げて下さる」
という信仰に、完全に
立つことです。この生き方に向かうために、人は罪の中に

閉じ込められました。
ですから、全能主は、そのように
心を切り替えて来る者を天に迎え入れて下さる

のです。


(結)
私たちは、全能主の計画によって初めから罪の中に閉じ込められ、曲った世の中に置かれ

ました
だから、ペテロ達の時代が、たまたま曲がった時代だったということでは無く、初めから

この世は、曲がった世で
あり、そこに私たちが生まれ出てきたということです。ですから、この罪の

世から抜け出そうとか、正しく生きて行こうとか考えても、それは全く無理な足掻(あが)きだという

ことです
。決してこの世は、私たちの思い通りには成りません。その事がはっきり分かったなら、

「考えを入れ替え、自分は罪の中に閉じ込められている人間だと
いう事を素直に認めた中で、イエス

・キリストを自分の救い主とし、全能主を第一にして生きて行くのです。」
それが、アオリストの

救いを頂いたクリスチャンの生き方です
そして、イエス様の為、全能主の為に生きて行く事が

私たちの願いですから、聖霊の力を頂いて、聖霊の満たしの中で、使徒たちと同じように使って頂こう

ではありませんか。 



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