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                                                                                                                             2021年10月10日

『イエス様を信じる信仰は誰にも負けない

マタイの福音書25:14~30

(起) 主のタラントの譬えから、「イエス様を信じる信仰は誰にも負けないという心を持って

与え
られた賜物を精一杯使わせて頂き、役に立つしもべとなる」ことを学んで行きたいと思います。



(承)さて、この中で語られている「タラント」というのは、それぞれに与えられている「能力」の

ことです。能力と
言うと、「生まれながらに与えられている能力」と、「聖霊のバプテスマを通して

与えられる能力
」の2種類が
あります。そこで、ここで語られているタラントは「聖霊のバプテスマを

通して与えられた能力」に関してのことで
あり、主からの賜物として特別に与えられた能力を、それ

ぞれのしもべ達が如何に(もち)いたかを、主人から精算されて、その結果「役に立つしもべか、役に

立たないしもべか」が評価されている内容です。さて、この
譬えの中では、1タラントを(もら)った

しもべが、異常な程に強烈な(おび)えの心を持って「御主人、あなた様は厳格な御方で、ご自分が蒔か

ない所から刈り取り、散らさない所から集める(こく)な人であることを承知していました」と言って

います。彼は何故、タラントを頂いたことを喜べなかったのでしょうか?
それは、主人がただの

利益を搾取(さくしゅ)する(こく)な人だと誤解していたからです。この譬えから分かることは、5タラントの者

と2タラントの者は、与えられたタラントに差はあるものの、二人ともに、「良い忠実なしもべよ。

良くやった」
と、全く同じ言葉が掛けられていることです。そこには、(もう)けた差があっても、主人の

評価には差はありません。なのに、この1タラントの者は、「自分は1タラントしか貰えなかったから、

どうせ大した
働きは出来ない。1タラントの儲けでは主人に喜んでもらえないだろう」と勝手に

思って、せっかく頂いた
タラントを地に隠しました。この姿勢は主人の意図に反していたのです。

主人は、始めからそれぞれの能力に
応じてタラントを与えていましたので、その関心事は、(もう)けの量

では無く、如何に、しもべ達が自分の能力に
応じて精一杯働くか、その()(がま)えを見たかったのです。

ですから、全能主の意に(かな)わない、役に立たないしもべとは、主人の意を汲むことをしない

律法主義的な人のことです。このように、ひねくれた者は、悪い
怠惰なしもべとして、外の暗闇に

追い出され、泣き叫び、歯ぎしりするのです。ですから、ここで言える重要な事は、タラントの量では

なく、頂いたタラントに対して本気で主人の心に答えようとしたかどうかということです。
それは

要するにクリスチャンが「たとい、世的な能力が無くとも、イエス様を信じる心だけは、誰にも

負けないという()(がま)えを持って信仰を働かせたかどうか」
(かか)っている、ということです。



(転)では、役に立つしもべとなるための信仰とは、一体どういう信仰なのでしょうか。

確かに、5タラントの者は
更に5タラントを儲けて、それを成果として持って来ました。また、

2タラントの者も、更に2タラントを儲けて、それを成果として持って来ました。そして、二人ともが

「良い忠実なしもべよ。良くやった」と言われました。
ところが、その時に如何(いかに)自分の力で

主人にお土産を持って来たかのように差し出す
なら、主人の心を逆撫ですることになってしまい

ます
。なぜなら、そのタラントは元々頂いたもので、自分のものではありませんでした。ですから、

私たちはどこまでいっても
罪人ですから、下手に出て、遜るという心を持って、初めて主人に通用

するのです。即ち、クリスチャンも
自分自身が罪人であることを自覚し、遜った心を持って、「こんな

者ですが、聖霊によって力を頂きましたので
、その力をこのように使わせていただきました」と言って

全能主の前に持って行くなら、全能主は「良くやった」と言って下さるのです。しかし、なぜ

1タラントの者が「悪い怠惰なしもべよ」と言われてしまったのかというと、
彼が、自分の手柄

として儲けようと勘違いをし、純粋に主人から頂いたタラントを主人のために用いようとし
なかった

からです。だから、彼はタラントの少なさのために、儲ける望みを持てなかった為、頂いたものを

そのまま持って行って返し、「私は、頂いたものを減らすことはしませんでした」と言って自分を

守ろうとしたのです。彼が何もしようとしなかった本心は、どこまでも、献身の
心の欠如がこの

怠惰な心の動機にあったからです。
ですから、主人の物をそのまま返せば自分の責任は問われる

ことは無いと思って、主人のために役に立とうとする心を表わそうとしなかったのです。そこには、

自分の罪意識の欠如が大きく影響しています。本当に罪人が救いをイエス様から頂いたと感動して信じて

いたら、幾らタラントを頂いた量が少なくても、卑屈(ひくつ)にならず、自分を低くして一生懸命に取り組んだ

はずです
そして、「私にはこれだけしか出来ませんでしたが、与えて下さった賜物を精一杯使わ

せて頂きました」と、
遜る心を持って報告していたでしょう。すると、5タラントの者と同じように、

「良い忠実なしもべよ。良くやった」と
言ってもらえた筈です。だから、私たち罪人は、絶対に卑屈(ひくつ)

なって不遜(ふそん)な心を持ってはいけないのです。しかし、多くの人は、自分が罪人だという事実を

もみ消して、生きて行こうとしています。
そういう人は、自分の
罪深さを棚に上げて、「たとえ

自分自身の犯した罪や過ちを悔いて、良心の咎めを(いだ)
いたとしても、それを持ったままクヨクヨ

していては、この世では生きて行けない」と弁解し続けて、生きて行くのです
しかし、能主の

お考えは全く真逆です。全能主の御心は、「人間の罪は、もみ消せるものではないので、その罪は

贖うしか無い」と思われました。
ですから、私たちは全能主の前に、生涯罪人であることを自覚して、

ただアオリストの救いを
感謝し、自分の罪人の現状に関しては、自虐的(じぎゃくてき)なぐらい自覚して、ただ遜って

行って丁度なのです。そういう
遜った心を持った者には、全能主の方から目を留めて下さり、

タラント(聖霊の賜物)を分け与えて「わたしの
為に働きなさい」と言って下さるのです。

そこで、彼が頂いた賜物を喜んで使わせて頂いたなら、「良い忠実なしもべよ。良くやった」と

言われ、役に立つしもべとして覚えられる事でしょう。ですから、私たちに言えることは
「私たち

は罪人ですから、全能主の前に何も持って行くことは出来ませんが、イエス様を信じる信仰だけは


誰にも負けない心を持って、与えられた賜物を精一杯使わせて頂きます」と、告白して行くのです。



(結)このように、私たちは罪人ですから、全能主に対して「あれやりました。これやりました。」

と、偉そうに誇ることは出来ま
せん。生涯、罪人であることを自覚し、自分自身を低くして、信仰

を全うして行くのです。しかし、イエス様を信じる心だけは、誰にも負けないという信仰の勝ち気さ

だけは持って行くべきです。
私たちは、将来、患難
時代を通り、その中で殉教して死んで行くこと

が示されています。死んで行く者が、全能主の前に、お土産など
持って行けるはずがありません。

ただ一つ、持って行けるものがあるとしたら、「たとえ命を奪われても、
イエス様を信じる心だけ

は捨てなかった
」という事だけです。どうか、この心を土台とし、タラント(聖霊の賜物)を頂き、

そして賜物を精一杯使わせて頂こうではありませんか。そして、最後に「良くやった。良い忠実なしもべよ」

と、主から声を掛けられる幸いな者とされましょう。

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