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2020年7月19日
全能主に心を寄せ、全能主に繋がる生き方

第Ⅰコリント11:2~16



(起)
第Ⅰコリント11章の女性の被り物についての御言葉から、「全能主の意向を忖度(そんたく)し考え、

全能主に心を寄せ、全能主に繋がる生き方をして行く」ことを学んで行きたいと思います。



(承)さて、5~6節を見ますと、「女が祈りをしたり、預言をしたりする時、頭に被いを着け

ないなら、自分自身のめることになります。というのは、それ自体が、髪を剃られて

いることと全く同じだからです。もし女が被いを着けないなら、髪を切ってしまいなさい。

しかし、髪を切ったり剃ったりするのが、恥ずべき事であるなら、被いを着けるべきです」とあり

ます。何故パウロはこのような勧めをしたのでしょうか。それは、全能主が創造の秩序を重んじる

方であった為、その全能主の意向に沿って語ったからです。どういうことかと申しますと、創造の

初め、
全能主は「我々の如くに人を造ろう」と言われ、男(アダム)を造られましたそして、

「アダムが一人でいるのは良くない。彼と向き合うふさわしい助け手を造ろう」と言われ、
アダム

を眠らせてあばら骨を一つ取り、女(エバ)を造られました
このように、男は直接的に全能主

によって造られ、全能主の栄光と形を与えられました
が、女は男を基に、男の助け手として造られ

ました。だから、
「女は男に属する者」(7節)であり、決して男と女は対等ではありません

しかしながら、現代は「男と女は対等」という意識が当たり前で、「女は男に属する者だから、

女は男に従う」という感覚がありません。学校でも男女一緒に勉強し、もし男よりも女の方が成績

が良ければ、女が褒められ、評価を受ける時代です。だから、「男と女は対等ではない」と言われ

ても、現代の私たちの感覚ではピンと来ません。しかし、どこまでいっても全能主の意識の中

は、男は全能主の栄光と形を持つ者女は男に属する者という区別があるのです。

パウロは、この全能主の意向を汲んで、「女が祈りをしたり、預言をしたりする時は被いを着ける

べきです」と勧めているのです。



(転)しかし、これは義務感ですることではありません。なぜなら、クリスチャンはキリスト

によって律法から解放されているからです。全能主は、イエス・キリストの十字架を通して、

「もう律法の(もと)に人を置かない。律法によって人を裁くことはしない」と言われました。

ですから、女性の被り物についても、律法に基づくものではありませんので、義務感でする必要は

ありません。だから、ここで重要なのは、「全能主の意向を汲む心があるかどうか」なのです。

すなわち、
「男女は対等ではない」という創造の秩序を重んじる全能主の意向を汲み全能主に

心を寄せて来るかどうかを、全能主は上から見ておられるのです。
もし、全能主の意向を汲んで、

女性が謙っ(へりくだ)た心を持って被り物を着けているのなら、その姿を上から見られた全能主は慰め

を受けます
そして、そのほかに上から見ているのは、御使いたちです。御使いたちは、全能主の

指示に従って人間を助けるという役割が与えられていますので、いつも上から人間を見ています。

その時に、
もし全能主の意向を汲んでいる人間の姿を見たら、御使いたちも心安らぐはずです

女は、御使いたちのために、頭の上に持つ権威を、表す義務があります(10節)と

書いてあるのは、そういう意味です。だから、ここでパウロが語っていることは決して律法では

ありませんが、「全能主の前に出る時は、全能主の気持ちを忖度(そんたく)して考え、女性は被り物を

着ける謙りをもつべきだ」ということなのです。



(結)私たちは全能主によって造られた者ですから、私たちの方から全能主に心を寄せ、全能主

の意向を汲んで行くのは当たり前のことです。それだけでなく、私たちは生まれながらに罪人で、

本来なら捨てられても当然の者でした。しかし、そんな者に対して全能主は心を使って下さり、

もう一度全能主に繋がる道を開いて下さいました。ですから、私たちはこの恵みに預かる者と

なったのですから、むしろ自分の気持ちや自分の感情を優先するのではなく、どこまでも全能主

の意向を第一にして、歩んで行くべきではありませんか。
いつまでも頑なになって、「私はそうは

思いません」とか、「私はそうしたくありません」という心を持ち続けるのは間違っています。


それも自由だと言えばそうなのかもしれませんが、私たちはこの世で命を閉じて終わる者ではな

く、全能主との永遠の交わりの中に入れて(いただ)く者です。ならば、今の自分の気持ちや自分の

感情ではなく、全能主の気持ちを汲んで、全能主の意向に合わせて生きて行こうとするのが、

信じた者の真心ではないでしょうか。この心を動かして、初めて私たちは全能主と繋がるのです。

どうか、どこまでも全能主に心を寄せ、全能主に繋がる生き方を始め出しましょう。
 

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