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2020年7月12日

信じる当事者になるための決断は、自分に根拠を置かず、
絶対主に日々信頼して行く信仰である


第Ⅰコリント5:7~8


(起) 第Ⅰコリント5章7節、8節の御言葉から、「信じる当事者になるための決断は、自分に

根拠を置かず、絶対主に日々信頼して行く信仰である」ことを学んで行きたいと思います。



(承) さて、7節を見ますと、「あなた方は、パン種の入っていない者なのですから、新しい

パン生地(きじ)のままでいるために、古いパン種をすっかり取り除きなさい」とありますが、この

御言葉は一体どういう意味で語られているのでしょうか? 本来、「あなた方は、パン種の入って

いない者なのです」と言われているなら、古いパン種はないはずです。なのに、「古いパン種を

すっかり取り除きなさい。」と言われるのはおかしな事です。この文章には、違和感を覚えて

しまいます。しかし、続きを読んで行きますと、「というのは、私たちの過越の小羊であるキリ

ストが、私たちのためにすでにほふられたからです」とあります。この「ほふられた」という言葉

はアオリスト形です。アオリスト形は過去に起こったことですが、ギリシャ語の時制では時の流れ

は関係がありません。だから、現在の状況如何に関わらず、「過去にキリストは(ほふ)られた」

という前提で、「あなた方はもうパン種が入っていない者です」という意味で記されているの

です。ということは、現在の私たちの状況如何に関わらず、「私たちの罪の償いのためにイエス・

キリストが死んで下さった」という事実がありますので、絶対主は私たちを「パン種の入って

いない者」として見て下さっているということです。ということは、私たちが現在古いパン種を

抱えていることを承知の上で、「あなた方は、パン種の入っていない者なのですから、新しい

パン生地(きじ)のままでいるために、古いパン種に捕らわれるな」と語られているのです。

それは、
キリストの贖いの事実がありますから、そのことを前向きに取り組んでいきなさい

と言う意味で語られていたのです。それは、私たちが「信じる決断」をした時も、自分自身が

信じるに値する人間かどうかは根拠にしなかったのと同じです。ただ、絶対主がイエス様を通して

やって下さった事実の故に、イエス様を根拠にして「信じる」と前向きに決断したことです。



(転)では、信じて救われた後の歩みに関して、私たちの「絶対主からの召し」についてはどう

でしょうか。実は、この召しに関しても同じです。聖書の中には、「絶対主の召しと選びは

変わらない」という御言葉があります。だから、
私たち自身の感情が「出来る・出来ない」と

思っても、それに関わりなく、「絶対主が私たちを使おうとして下さっている」という事実に

基づいて、私たちは決断することです
その時に、「自分がその召しにふさわしい人間かどうか」

は、考える必要はありません。それは絶対主が決めることであって、私たち自身が決めることで

はないのです。そもそも、私たちは「召しにふさわしい能力を持っているから使って頂ける」と

思ったら大間違いです。むしろ、私たちは救われたからといって、生まれ持った肉の性質は何一つ

変わっていません。単なる救われた罪人にすぎません。しかし、絶対主はそれを承知の上で私たち

を召して下さったのです。だったら、私たちに根拠はありません。
絶対主が私たちを使いたいから

使って下さるだけで
私たちはその事実の故に、「私のような者でも使って下さい」と決断する

のです。
すなわち、自分自身に根拠を置かず、絶対主に根拠を置き、絶対主に信頼することです。

この決断を日々して行くことが、信じる当事者になる秘訣です。



(結) 最後に御言葉に戻りますが、8節の「パン種の入っていない純粋で真実なパン」とは何

でしょうか。「パン種が入っていない」ということは、自分自身の古いパン種を見ないということ

です。すなわち、自分自身に根拠を置かず、どこまでも絶対主を信頼する姿勢のことです。

なぜなら、キリストの救いは、自分に根拠がないからです。ですから、キリストによってパン種の

入っていない者とされた一人一人が集まり、「主よ、ありがとうございます。どうか、絶対主の

御心の為に私をお使い下さい」という心を表すのが礼拝です。そこに、純粋な信仰があるのです。

私たちの礼拝献金は、純粋な信仰と真実な献身の表れとしての捧げ物です。これは決して自分の

肉を根拠に献げるものではありません。また、献身の思いは、出そうと思って出せるものでは

ありません。どこまでも絶対主への純粋で真実な礼拝の心から出てくるものです。先程も申し

上げたように、救いはアオリスト形ですから、信じた後の歩みについても同じです。自分に出来る

・出来ないの問題ではなく、「キリストの召しがあったので、絶対主がお助け下さる」と信じる

から従うのです。
どうか、自分自身に根拠を置かず、絶対主に根拠を置き、絶対主に信頼する信仰

に立ちましょう。
そして、この決断の日々を通して、信じる当事者になって行こうではありま

せんか。

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