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2020年5月31日
『信仰の従順に至る行いの勧め』

ローマ12章以降から


(起)ロマ書8章までは救いの立場が記され、9章から11章まではイスラエルの救いに関すること、

そして12章から15章にかけては、行いに関する勧めが出て来ます。これは、パウロさんの手紙の特徴

ですが、手紙の前半は救われた者の恵みの立場が記されて喜びが湧き上って来ます。しかし、後半に

なると実に高尚(こうしょう)な道徳規準が羅列(られつ)されて「あーあー、きたか!出来るわけない!」と落ち込み、

ただ流し読みしてしまいます。これが罪人にとって本音でしょう。しかし、聖書に書かれている以上、

クリスチャンは内容を無視することは出来ません。そこでこの勧めの目的が何んであるのかを考え、

御言葉を実践する手立てを考察(こうさつ)して行きたいと思います。まず、12章9節を見ていきますと「愛には

偽りがあってはいけません。
邪悪なことは忌み嫌い、良い事は積極的に関わりを持ちなさい」とあり

ますが、この御言葉は、クリスチャンに対して律法として課(か)せられているものではありません。

なぜなら、どんなに、崇高な戒めであっても、罪人が救われたからと言って、罪人には変わりありま

せんから、律法としては守り切ることはできません。元々、イエス・キリストは私たちを律法から解放

して下さった方です。それなのに、改めて、旧約の律法以上の戒めが示されて、「それを守りなさい」

と言われても無理なことです。ですから、この戒めが示されている霊的な真意を汲(く)み取り、そこから、

この
ロマ書が書かれた目的である「信仰の従順」について学びたいと思います。



(承)それでは、この戒めが示す真意を考えていきましょう。まず、クリスチャンが、どのよう

な心を持てば、聖書の教えに従っていけるのか見ていきます。まずロマ書13章9節を見て行き

ますと、「どんな戒めがあっても、結局、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』という

この言葉に要約されている
」とあります。この戒めは、旧約聖書の律法的概念で理解してはいけ

ません。なぜなら、これはキリストの贖いを受けたクリスチャンたちに語られたものだからです。

この基本的概念から、この戒めを考えて行く時、「あなたの隣人を愛せよ」という戒めは、良き

サマリヤ人のたとえで語られたイエス様の真意を汲み取って行くと分かります。それは単なる

犠牲的
な隣人愛ではなく、自分にとって損得を考えない純な精神から出てくる行為として、

イエス様は求めておられるのです。それは、当然自発的なものです。この自発的なものほど、

難しいものはありません。それが単なる見せかけでいいなら、義務感ですることも出来ましょう。

しかし、もはや全能主もイエス様も義務感でされたものでは、受け止めて下さいません。なぜ

なら、キリストの救いは純粋な恵みの行為ですから、その純粋な恵みの行為で救われた事が分かっ

た者は、「自分も同じように純粋な行為で答えて行きたい」という自発的な心を表わして欲しい

と、全能主は期待しておられるからです。だから、「しなければならない」という無味乾燥な律法

から出たものは、全能主の愛の心に答えた行為ではないのです。義務感でする者は、キリストの

愛の行為を本当に受け止めた者ではないからです。一般的に、生まれながらの肉に留まっている

者は、キリストの本当の愛の救いが分かっていません。それは、ただ自分の損得で信じた御利益

信仰に過ぎないからです。損得で信じた者は、律法から解放されていません。損得は、「ギブ&

テイク」ですから、自分も義務感で答えていかなければならなくなります。なぜなら、人は誰

よりも自分を愛している者ですから、他人を自分の如く愛することは、自然には出来ません。

だから、この戒めも義務感でしようとします。しかしながら、愛とは、自分の心の中から出て

くる自発的なものであり、自分が純粋な恵みで救われたのだから、「自分も純粋な行為で答えて

いきたい
」という自発的な行為でないといけないのです。これが、旧約と新約の違いです。旧約の

聖徒には、キリストの純粋な恵みは伝えられていなかったのです。ですから、旧約の人々は、自分

の義で答えて行かなければなりませんでした。それは、自分の心次第で「思い遣(や)り」になっ

たり、「押し付け」になったりします。ということは、隣人を愛しているつもりでも、かえって

相手にプレッシャーを掛けており、本当に相手の為になっているのかどうか分かりません。

むしろ、困らせている場合さえあります。だから、新約のクリスチャンたちは、それを避ける

ために、まず私たちの心から、打算的な心を取り除き、右の手でしたことが、左の手に教える

ようなことにならないようにしなければなりません。それは、単に、打算的な心が働かないよう

に気をつけるだけではありません。なぜなら、気をつけていても、「善意で遣ったのに」と、

自然に見返り(ギブ&テイク)を求める心が出てしまうからです。この心が出た途端に、押しつけ

となり「愛には、偽りがあってはいけません」とある御言葉を、旧約の人のように義務感ですること

になってしまいます。これでは、純粋な「隣人を愛する行為」とは成りません。純粋な行為には、

義務感も損得感情(あえて勘定でない)も入っていません。しかし、現実には、この心が分から

ないクリスチャンが多いのです。なぜなら、御利益的な、損得ずくで信じたからです。

本来、恵みを理解して信じた人は、自分の罪深さを嫌と言うほど知らされ、そんな中で救いが

あることを知って、キリストの恵みを味わい、損得感情から離れたのです。
私たちも、このような

クリスチャンである
為には、まず自分が罪深い人間であったことを思い知り、自分が純な恵みで

救われたことを悟るべきです。その中から、本物の救いを知ったクリスチャンは、自分の損得から

離れた心を持って信仰を表わしていこうと始めるのです。即ち、自分より隣人が満足することを

喜ぶ心へ変わって行くのです。これが、私たちがゲームをする目的でもあります。ゲームは、ただ

自分が勝つことだけを考えるのではなく、自分が負けても相手が勝って、それを喜んでいること

を嬉(うれ)しく思うようにならなければ成りません。また、たとえ自分が勝っても、負けた人も満足

できるように勝った物をみんなのために遣う心が大切です。この心を悟るためにゲームで養って

行くのです。それは、純粋に相手のことを尊べるようになるかどうかです。人は一般的に、自分の

都合から見た目でしか、相手のことを考えません。だから、自分を中心に愛を考えてしまうの

です。これでは、聖書の勧めを理解して行動に移すことが出来ないでしょう。



(転)では、クリスチャンとしてどのように勧めを実行していけば良いのでしょうか?

それは、どこまでも聖書の教えは霊的なものですから、この世のレベルで考えて、答えを出そう

としてはいけません。ロマ書のテーマは、「信仰の従順をもたらすために」と書かれています

(
ロマ1:5,16:26)。ですから、まずクリスチャン一人一人が全能主に自発的に従って行こう

とする霊的な思いに満たされ、全能主に懸けて行きたいという献身の心を持つことが大切です。

その為にパウロさんは、クリスチャンの置かれている幸いな立場を8章までに記しました。

そして、「私たちの古い人は、キリストと共に十字架に付けられました。もはや、私が生きている

のではなく、キリストが私の中に生きておられるのです。しかし、私が今、肉体にあって生きて

いるのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた全能主の御子を信じることによって、

生きているのです。
」(ガラテヤ2:20)という生き方が、クリスチャンにはできることを示した

のです。それは、罪人が、これ以上自分のために生きて行っても無意味だからです。なぜなら、

罪人が、たとえこの地上でお金持ちになり、この世で有名人になったとしても、命を失ったら

何の意味があるでしょうか。たとえ、地上で持(も)て映(は)やされても、その栄華を天に持って行く

ことは出来ません。むしろ、裁きが待っているだけです。だから、キリストの純な恵みで救われた

罪人は
、地上のためではなく、天にいる全能主に喜ばれる生き方をして行きたいと思うようになり

ます。ここに、地上の損得に捕われない生き方が始まってくるのです。それは行いというより、

まず天の父に心が向けられて、価値観が変わって行くからです。すると、己(おの)ずから、地上の

生き方も変わって行くわけです。
その生き方は、地上の事柄は、全能主に委ね、全能主のために

清濁併せ呑む生き方
でもあります。なぜなら、もう「自分、自分に拘(こだわ)る生き方」ではなく、

人の救いのことを考える生き方に心が向いて行くからです。それは、「全能主のために生きて

いこう」と、思う気持ちに変えられた証であり、自分のことよりも、人のことを思う思いやりの

精神が、恵みの中で救われた者の気持ちとして、出て来るからです。ここから、自然に「あなた

の隣人を愛せよ
」という生き方へと、心が向いて行くようになります。これは、「しなければなら

ない」という律法では決してありません。むしろ、全能主を中心に考え始めた結果、そうなって

行くものです。




(結)このように、信仰の行いは、心が同意するところから生まれ、その同意した価値観に心が

動き始めます。すると、今までとは全く心の使い方も変わってきます。というのは、これまで、

全能主に従って行こうとする時、この世で得することばかり考えていましたが、決してそうでは

ないからです。むしろ、辛(つら)いことも耐えていかねば成りません。なぜなら、天の価値観と

地上の価値観は違うので、時として、地上の人間からは誤解され、この世の人から馬鹿にされて、

世では損ばかりするかも知れませんから。しかも、クリスチャンが世に妥協しなければ、この世は

住み心地(ごごち)の悪い所にもなります。だからこそ、全能主に従うということは、全能主のため

に清濁(せいだく)併(あわ)せ呑(の)むということも起こってくるのです。それは、従う者にとって当然のことです。

人は罪人ですから、自分の濁(だく)は当然飲まなければなりません。しかし、他人の濁は、

飲まないようにして自分を守ろうとします。しかし、全能主にあって「あなたの隣人を愛せよ」

という時は、他人の濁(だく)も呑むという事が起こって来るのです。だから、そこに愛が表れるのです。

それが、全能主のために「泥をかぶる」ということでもあります。昔の武将たちは、殿の濁を呑む

のは当然のことでした。赤穂浪士の方々は、仇討ちが正しいか、正しくないか?ということが問題

ではなく、殿に仕える者にとって自分たちの命を懸けた損得抜きの心で従い通すかどうかでした。

なぜなら、自分の命をも捨てて従う心を持つことは、本物の従う精神だからです。イエス様も

弟子たちに、「自分を徹底的に否定して、自分の十字架を負って、
わたしに従って来なさい」と

言われました。この心が、従う者にとって清濁(せいだく)併(あわ)せ呑(の)む心を表わした生き方です。

元々、罪人は自分勝手ですから、正しい善悪の判断はできません。判断しても、罪人は自分の都合で

判断しているだけです。ですから、全能主はそういう見掛けだけの正義を表す生き方を求めている

訳ではありません。なぜなら、全能主は、人が正義感で清(せい)を呑(の)んでいるつもりであっても、

全能主の考える清でないことが多いからです。だから、人は自分の正義感に拘(こだわ)ってはいけない

のです。自分の正義感に拘(こだわ)ると、全能主のために清濁併せ呑むことが出来なくなります。

ここをよく考えて下さい。ということは、全能主は人の正義感ではなく、全能主に在って従い、

清濁併せ呑む心
を持っている者に、心を向けて
おられることを人に悟らせたいのです。

こうして、全能主は、私たちが損得抜きで、従う心を尽くして来るかどうかを見ておられるのです
。

ここに、「愛には偽りがあってはいけません。」という全能主の心があるのです。

常に自分の正義を立てる人は、自分の思いに従っても、全能主や指導者に従うことが出来ません。

罪深い人間だと自覚する者だけが、へりくだって全能主や指導者に
従順に従って行こうとする

自発的な行為が出てくるのです。
未だに、自分の義を立てるクリスチャンは、自分がイエス様の

純な恵みで救われたことを心底、御霊によって知らされていないのです。あなたの隣人を愛せよ

という御言葉を実現するためには、
徹底的に全能主に従う謙り(へりくだ)なしには出来ません。

それが分かって来ないと、『あなたの隣人を愛せよ』という御言葉は、棚の上に飾られた聖句に

過ぎなくなってしまいます。だから、キリストの恵みで救われた者は、純粋な精神から出る

従順な心で、まず全能主の国と、全能主の義を求め、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を

尽くして」という、「信仰の従順」に進んでいきましょう。そして、終わりの時まで、とことん

従い尽くした信仰の生涯を全うしようではありませんか。すると、命を閉じた時、その従い通し

た信仰の生涯から、自発的な愛をその人の生涯を振り返る中で、見ることになるでしょう。

この生涯こそが、信仰の従順の中に生きて行く秘訣なのです。

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