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2020年1月26日
絶対主を信じ続けて行く

ルカの福音書17:1~4


(起)ルカ17章4節の御言葉から、今日はっきりと語りたいことは、「どんなに自分自身の心

が責められようが、謝っても謝り切れない過ちを犯そうが、最終的には『絶対主を信じ続けて

行く』という所に立つのが、私たちの正しい信仰の在り方である」ということです。

(承) さて、4節を見ますと、「たとえ、その人があなたに対して、一日に七度罪を犯しても、

七度『悔いし心』を持ってあなたの所へ帰ってくれば、赦してやりなさい」とあります。

この御言葉を自分自身にあてはめると、「たとえ一日に七度罪を犯しても、七度『悔いし心』を

持って自分自身の罪を認めるなら、赦される」ということでもあります。

しかし、その「赦される」というのは、「赦してもらったことの平安が与えられる」ということ

とは別問題です。たとえ罪が赦されたとしても、「自分が罪を犯した」という事実は消えず、

罪を犯したことの悔いは、いつまでも残ります。すると、それが自分自身の心の責めとなり、

痛みとなります。特に、イエス様を信じると、それをより強く感じるようになります。何故かと

いうと、御霊が内住するようになるからです。御霊の内住によって、自分が犯した罪に対する心

の痛みは、今までの何倍にもなって感じるようになります。

 すると、クリスチャンは皆、「クルシミチャン」になってしまうのです。クリスチャンは

「信じた以上、聖書に書いてある通りに 生きて行くべきだ」という意識を持って歩み出します。

しかし、信じた後もなお罪を犯し、聖書に書いてある通り歩むことが出来ない自分に()ち当たる

と、イエス様の救いを信じて喜んだ筈なのに、その救いを喜べなくなってしまい、「自分はダメ

だ」という思いに向かって行ってしまうのです。しかも、そこで厄介なのは、「イエス様の贖い

があるからと言って、その救いに留まろうとするのは身勝手だ。それは自分自身の罪を無視し、

自分を欺くことだ」と言うルシファーの声が聞こえて来ることです。私たちは、そのルシファー

の声を聞いてしまうと、ますます落ち込み、自分の思いを信仰的に切り替えることが出来ずに、

絶対主を信じて行くエネルギーを失ってしまうのです。

(転)しかし、そんな中で、今日はっきりと語りたいことは、
「どんなに自分自身の心が責めら

れようが、また謝っても謝り切れない過ちを犯そうが、最終的には『絶対主を信じ続けて行く』

という所に立つのが、私たちの正しい信仰の在り方である」
ということです。たとえクリスチャン

になってイエス様の救いを頂いたからといって、一つも罪を犯さない生き方が出来るわけでは

ありません。誰もが罪を犯し、傷を負い、失敗をし、恥をかいて行くのです。これは私たちの

人生において避けられないことです。何故なら、私たちは生まれながらに罪人ですから。絶対主

は、こういう罪人の私たちを、イエス様によって完全に造り変えてしまう、ということはなさい

ませんでした。だから、
「生まれながらに罪人である自分」は、たとえイエス様を信じても変わり

ません。
しかし、「イエス様は、私たちの罪を全部背負って贖って下さった」という事実は変わり

ませんので、私たちはその罪の重荷を全部下ろして、御国へ入れて頂けるのです。ただし、その

重荷が取り去られるのは、この地上ではなく御国に入れて頂くときです。だから、私たちは命を

閉じる時まで、どんなことがあろうと、イエス・キリストを信じる信仰から離れてはいけません。

どんなに自分自身を訴える声があっても、
どんなに恥ずかしい過ちを犯して落ち込んでも、

それでも「私にはイエス様しかありません」という心で生涯を通して行く
のです。それが(へりくだ)りの

心です。だから、今日お読みした17章4節の御言葉は、自分に罪を犯す者に対して語られている

言葉ですが、これは自分自身にも適用すべきです。私たちも、一日に何度も同じ過ちを犯して

しまう者です。しかし、それでも自分の罪を悔いて、砕かれた心を持って行くなら、絶対主は

イエス様の故に私たちを赦して下さるのです。自分自身の罪に対して厳しく見つめようとする人

は、なかなか自分で自分を赦せないところがあります。それはある意味で「自分の罪を棚上げに

していない」ということで、正しいことです。でも、それで絶対主に対して心を閉じて、いつまで

(へりくだ)ろうとしなければ、絶対主を信頼して行くという意識から離れてしまいます。それでは、

(もと)()もありません。

(結)ですから、私たちはどんなに自分自身が不利な状態に陥ったとしても、イエス・キリスト

の贖いは現実に私たちの内にあるのですから、そこに留まるべきです。自分自身の罪に対して心

の責めを感じて悔いることは悪いことではありません。むしろそれは必要なことです。しかし、

そこで終わってはいけません。悔いた後にはへり下り、それでも諦めずに絶対主を信じ続けて行く

ことが、私たちにとって正しい信仰の在り方です。悪魔は、「それは自分を欺くことだ」と言って

きます。しかし、そうではありません。私たちは確かにダメな人間で、罪を犯す人間なのですが、

だからと言ってキリストの贖いが消滅したわけではありません。だから、決して絶対主から離れて

はいけません。罪人だと分かっていて、絶対主はイエス様の贖いを与えて下さったのですから、

私たちはなお遜って信じて行くのですどうか、ここにしっかりと立って「信じる者に働く全能

の力」を味わって行きましょう。すなわち、弱さを抱えている自分自身をそのまま良しとするの

ではなく、
絶対主を信じるが故に、その弱さに立ち向かって行くのですそして、「こんなダメ

な者ですが、信じて良かった。助けてもらえた」ということを味わって行こうではありませんか。


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