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2019年 NO.664


「我が心、定まれり」(詩577

−正しい決断の仕方について−


  信仰の決断は、軽々しく自分の思惑や自分の願望では決められません。

それは、一度定めたものを翻すことが出来ないからです。聖書には「手を(すき)にかけて

から、後ろを見る者は、絶対主の国にふさわしくない」(ルカ962)とあります。

ですから、クリスチャンの決断は、絶対主の前で定めたもので、自分の感覚や願望で見切り

発車して定めてはならない
のです。


 未信者時代は、絶対というものがありませんから、常に自分の計算や自分の思惑を根拠に

して判断し、最終的には自分の 気持ちに従って決めて行きました。しかし、しばしば思惑

通りには事が運ばず、手痛い目に会って後悔することが多かったのです。

ところが、クリスチャンの場合には絶対的な方と相談して、「絶対主のみこころ」と判断し

た場合には、確信をもって心を定めて実行して行きます。しかしながら、その場合でも、

しばしば壁に()ち当って困惑する場合もあります。しかし、絶対主の前に定めたこと

ですから、最後まで信頼して(すき)を手にして(たがや)し続けるのです。これがクリスチャン

の決め方です。


 このように信仰の決断は自分に頼ってするものではなく、絶対的なるお方に頼って決めて

行くのです。そして、たとえ自分では決断できなくても「絶対主が、こうしなさい」と

「御言によって示唆」を受けたら、絶対主の言葉は絶対ですから、「そうして行きます」と

定めて行きます。
しかし、その場合のクリスチャンの信仰は、「絶対主にあって自分は

生きる」ということが、信仰生活の前提となっていなければなりません。この前提なしで

「絶対主が、こうしなさいと言われたから、そのようにします」と決めたとしても、

絶対主に頼り切っていない人は、自分の都合が悪くなると、「やっぱり絶対主に頼っても

駄目だ」と自分の判断を優先して、定めを(ひるがえ)してしまいます。これは、信仰の基本

姿勢が、「絶対主にあって生きて行く」と定め切っていないからです。こういう人は、

いくら「御言をもらいましたから、そうします」と決めても、壁に()ち当ると簡単に

御言がふっ飛んで行ってしまい、御言に最後まで踏み止まることをしません。ですから、

クリスチャンは、まず「絶対主の国と絶対主の義を求め」、「絶対主に懸けて行く」という

定めた心があって、決断して行くもの
です。



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