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2019年8月4日
私たちの肉は負けてもいい』
―ベテスダの池での癒やし―


ヨハネの福音書5:1~18


(起)ヨハネの福音書5章のベテスダの池での癒しの記事から、「私たちの肉は負けてもいい」

ということを学び、「その心こそ、本当の意味で悪魔に負けない心であり、絶対主と繋がる心

である」ということを学んで行きたいと思います。


(承)さて、「エルサレムにあるベデスダの池の回廊には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた

者などが大勢体を横たえていました。」彼らは何故そこにいたのかというと、時々、御使い

がこの池に降りて来て水を動かすことがあり、その水を動かした後に真っ先に入る者は、

どんな病気にかかっていた人でも癒されたからです(4節)。しかし、その癒しに与ることが

できたのは、御使いが水を動かした後に一番最初にそこに飛び込んだ、たった一人だけです。

だから、盲人や、足なえは自力で動くことが難しく、そのチャンスに巡り会えても、最初に

飛び込むことができず、毎回他の人が癒されて行くのを見て悔しい思いをするだけでした。

ここにはそのような人たちがたくさんいたのです。しかも、ここにいる人たちは皆、罪人扱い

されてのけ者にされていた人たちでもありました。どういうことかと言いますと、14節で

イエス様が語られている言葉で分かりますが、当時のユダヤ人社会では、「病は罪を犯した

結果だ」と考えられていたため、ユダヤ人の中でも、「彼らは罪を犯した者たちで、絶対主

から退けられた者たちだ」という目で見られていたからです。そんな中、イエス様がそこに

来られて、38年間、病気で苦しんでいた人を見て、「癒されたいのか」と言われました。

彼は、その主の言葉に「当然でしょ」「主よ。水が動く時に、私を池の中に入れてくれる人

がいません。私が入りかけると、他の人が先に降りて行くのです」と文句を言った訳ではあり

ません。彼はここで、「癒されたいのですが、自分の力ではどうにもなりません」と言い、

「自分は負け犬同然の敗北者で、どうにもならない罪人です」と認めたのです。すると、

イエス様は、彼を見て「起きて、あなたの床を取り上げて、歩きなさい」と言われ、彼を

癒されました。イエス様は、「自分の力では何もできない」と自覚していた罪人に目を留め

られ、癒しを与えられました。実は、絶対主と繋がる者とは、このような心を持った人たち

なのです。


(転)では、私たちもこのように絶対主と(つな)がる心を持っているでしょうか。

私たちは、今まで当たり前のように「自分の命は自分のものだ」と思って生きて来ました。

ですから、自分に不利なことには当然のように腹を立ててきました。それは、「自分の命は

自分のもの」という考えを持っていたからです。すなわち、「自分の内側から出てくる自分

の気持ち、自分の意志、自分の考えは全て自分のもの」と考えていたということです。

だから、私たちはどこまでも「自分の思い、自分の意志、自分の考えを通そう」と思って生き

て来ました。ところが、
絶対主がおられることを知り、「自分の命は自分のものではない、

この命を造られた絶対主のものだ」
と分かった時、「自分の思い、自分の意志、自分の考え

を通す権利は自分にはない」ということが分かったのです。すると、私たちは
「自分自身の

考え方を変えて行かなければならない」
ということが初めて見えてきます。すなわち、自分

中心の考え方から、
絶対主中心の考え方に変えて行かなければならないということです。

そのためには、自分の思いを砕き、空っぽにする必要があります。すなわち、自分の思いを

明け渡すということです。そして、どこまでも自分の我を通すのではなく、絶対主のお考えを

そのまま聞き、心の中に入れて行くということです。それは言葉を換えると、「私たちは自分

のプライドに立っていてはいけない、負けていい」ということです。それが、どういうことを

意味するのかと言いますと、人間は、大なり小なりプライドの塊です。だから、負けたくない

精神を持って生きて来ました。しかし、その考え方を捨てなければなりません。例えば、相手

から強く責められた言い方をされた時、「負けたくない」と思って心を閉じ、その言葉をそ

のまま聞こうとしません。しかし、強く責められた時こそ、「負けたくない」という思いを

砕き、自分の考えから離れて、反発を砕いて聞くなら、相手の言っていることが、イメージと

して心の中に入って来ます。すると、心で理解したイメージを、へりくだった心を持って表わ

す生き方に変わって行きます。
人は、「自分は負けていい」という事が霊的に分かってくる

と、自分というプライドから離れて、「滅私奉公の心を持って絶対主に仕えて行く」という心

が生まれてくるのです。
これこそが絶対主を第一とする、第一歩が始まることなのです。

(結)イエス様は、ベテスダの池の大勢の病人の中から、たった一人の人に声をかけられ、

その人を癒されました。それは、その人が「自分はどうにもならない負け犬の罪人です」と、

自分から表明し、口で言い表して認めたからです。イエス様の死の目的は、そういう病人、

罪人を救うための贖いのために来られた方です。もし、あの場面で彼が強がりな発言をして

いたら、「では、あなたは自分の力で生きて行けばいい」と言われ、癒されることはなかった

でしょう。
イエス様の死は、罪人がどうにもならないから、あえて、人の償いのために来て

下さったのですから、私たちはもう強がる必要はありません。「肉は負けていいのです。」


絶対主は、最後の集大成の計画として、「悪魔との戦いに勝利する者を起こしたい」と願って

おられます。これからやって来る患難時代の中で、聖徒たちは悪魔に殺されて行きます。

ですから、「死に至るまで忠実であれ」と言われ、その心を持った者を世界中から起こし、

悪魔との戦いに勝利するため、
「自分」の命を捨てる覚悟を持った者を探しておられる

です。そこで、
自分を守って「勝とう」と思ったら、本当に負けてしまいます。その時、

「自分の命は絶対主のものです」と言える者が勝利するのです。ということは、私たちの肉の

命は負けていいのです。これが、
主の証のためにこの命を差し出すことです。

どうか、これが「本当の意味で悪魔に負けない心である」ということを悟ろうではありま

せんか。これこそが、絶対主の心と繋がる道だからです。


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