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2019年7月28日

私たちの自由を如何(いかに)に使っていくか

第Ⅰコリント10:14~33


(起)第Ⅰコリント10章23節の「すべての事は私には許されています」という御言葉

から、「天に意識と価値を置いて物事を考え、また判断して、私たちが持つ自由を如何に

使って行くか」を、学んで行きたいと思います。

(承)さて、パウロはここで偶像礼拝について語っています。まず第Ⅰコリント8:4を

見ますと、「私たちは、実際には、世には偶像の神は一つも存在しないこと、また唯一

のヤハウェの他には、絶対主はいないことを、知っています」とあります。この世界には

偶像と呼ばれるものがたくさんありますが、それらのものは神でも何でもありません。

ただ人間が勝手に造り出し、神として崇めているだけの物であって、絶対主の存在がその

中にある訳ではありません。だから、パウロの言う通り、唯一のヤハウェだけが絶対主で

あり、他に、何物も存在しない。ただそこにあるものは全部(にせ)の偶像なのです。

この真理を知った私たちは、偶像に関して、この世のいろいろなしきたりや戒めに縛られる

必要はありません。例えば「偶像に捧げた肉を食べてはいけない」というしきたりも、唯一

の絶対主を知ったクリスチャンにとっては関係のないものであって、偶像に捧げた肉で

あろうが普通の肉であろうが、気にせず食べていいのです。そして、それだけではなく、

「絶対主を信じたクリスチャンは、イエス・キリストにあってすべてのことが赦されてい

ます。」とあるように、私たちの一切の罪はイエス・キリストによって贖われ、十字架に

釘付けにされました。ですから、私たちのような罪人でも、天に引き上げられる者とされた

のです。だから、
私たちは天に国籍を持つ者として、地上のことに捕われる必要は一切あり

ません。
また、自分自身の罪に縛られる必要もありません。もちろん、私たちはイエス・

キリストの贖いを受け取っただけで、自分自身が何かしたわけではありませんから、罪人の

ままであることに変わりはありません。だから、私たちは信じてもなお罪を犯すし、失敗も

するし、過ちも繰り返します。しかし、イエス・キリストの贖いを通して、私たちの一切の

罪は赦され、裁きの対象から外され、天に迎えて頂けるのです。これこそが私たちにとって

の救いです。


(転)では、それが分かった時、私たちクリスチャンはこの地上で自由奔放な生き方を

して良いのでしょうか。そんな訳がありません。いくら自由だからといって、放縦(ほうじゅう)な生き方

が奨励されるはずがありません。しかし、地上に捕らわれる生き方をする必要もありません。

なぜなら、クリスチャンは、すべての希望を天に置いて生きて行くからです。すなわち、

「たとえ地上で命を奪われようが、辛い目に遭おうが、自分には天の救いがあるのだから

それでいい。地上のことなんかどうでもいい」という生き方をして行く
のです。

それは「地上に捕われない生き方をする」ということであり、言葉を()えれば、
「私たちは

イエス・キリストにあって自由だ」
ということです。しかし、自由だからと言って、その自由

をあえて人をつまずかせるために使うのは当然間違っています。それはどういうことかと

申しますと、人に福音を伝える時に、まず私たちの生活を見てつまずいてしまうなら、話を

しても聞いてくれません。それでは福音を伝えることができませんので、その場合は自分

自身の行動を改める必要があります。例えば、お酒に関して、イエス様もお酒を飲んでい

ましたから、あえて私たちが律法的にお酒を飲むことは罪だと言う必要はありません。

しかし、私たちがお酒を飲むことによって人がつまずくなら、その人のためにお酒を飲む

ことを止め、また同じように偶像に捧げられた肉を食べることによって人がつまずくなら、

その人のために偶像に捧げられた肉を食べることを止めれば良いのです。つまり、
私たちの

持つ自由は、人の益となるために使う自由
です。ですから、私たちは何をしても自由です

が、人をつまずかせ、罪を助長するような放縦に向かって行くためには使わないということ

です。罪は私たちにとって呪いであり、地獄の門を開くものであることを忘れてはいけま

せん。私たちは、地獄の門を開くような罪からは離れて行くべきです。そして、その判断

は、「天に繋がるかどうか」で判断して行くべきです。先ほど申し上げたように、もし

自分の行動によって人をつまずかせてしまうなら、その人は天に繋がりません。だから、

自分自身の行動を見直すべきです。また、自分の行動によって自分自身が天に繋がる確信

を失ってしまうなら、それもあえて続ける必要はありません。私たちクリスチャンはその

ように判断し、自分の持っている自由を天に繋がるために使って行くのです。

(結)こういうわけで、ある意味で極端な部分もお話ししましたが、それを悪魔に使われ

て、逆の意味のメッセージとして受け取らないように注意して下さい。確かに、私たちは

イエス・キリストにあってすべてのことが赦され、自由が与えられた者ですが、だからと

言って罪を助長するようなことまでやってもいいというわけではありません。真理には二面

性がありますから、そこは理解していきましょう。そして、
罪人である私たちの望みは天に

しかありませんので、天に意識と価値を置いて物事を考え判断し、私たちが持つ自由を如何

に使って行くべきか
を考えて行こうではありませんか。こんな罪人を天に引き上げて下さる

者として下さったのですから、私たちの命を絶対主のために懸けて行く自由を用いて行こう

ではありませんか。


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