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2019年8月25日
絶対主に対して心をオープンに

ヨハネの福音書12:20~33


(起)ヨハネ15章のぶどうの木の譬えから、「絶対主に対して心をオープンにして、イエス様

に繋がり、多くの実を結ぶ者となること」を学んで行きたいと思います。

(承)さて、ある日、イエス様はぶどうの木の譬えを通して弟子たちに語られました。枝は

ぶどうの木に(つな)がっていなければ、木から栄養を得ることができません。栄養を得ることが

できなければ、実を結ぶことができません。ですから、枝である私たちは、ぶどうの木である

イエス様にしっかりと(つな)がっていなければ、実を結ぶことができないということです。

だから、私たちクリスチャンにとって、「自分自身の信仰が、本当にイエス様に(つな)がっている

信仰かどうか」を吟味する必要があります。見掛けだけの信仰では何の意味もありません。

確かに、見掛けだけで教会に来て、見掛けだけでクリスチャン振っている人はたくさんいます

し、この世ではそれでも通用するかもしれません。しかし、絶対主はそのような者を、全部

集めて火の中に落とされます。すなわち、農夫である絶対主が、枯れた枝を全部取り除き、

それを掻き集めて、最終的には火に投げ入れて、焼いてしまうのです。だから、私たちの信仰

は、しっかりとイエス様に繋がった本物でなければなりません。すなわち、幹から栄養を吸い

取る生きた信仰でなければならないのです。

(転) では、しっかりとイエス様に繋がった本物の信仰とは、どういうものなのでしょうか。

それは、「自分の考えや自分の判断で生きて行くのではなく、全ての判断を絶対主に聞き、

常に絶対主に委ねて行う」という信仰のあり方です。その心を持った信仰者は、絶対主に対して

心をオープンにします。しかし、人間は、自分にとって都合のいい時は心をオープンにします

が、都合が悪くなると、弱気になって自分を守ろうとします。その我を通す部分が私たちの中

にはあります。それは絶対主に信頼したオープンの心ではありません。現実問題、私たちは

メッセージをただ聞いている時、自分に直接語られていないので、心をオープンにして「その

通りだ」と思って頷きます。しかし、現実に「自分自身には出来ない」と思うメッセージに

は、心をオープンに出来ません。すなわち、「絶対主に全て委ねて従うのか」、「自分の考え

に立たず、絶対主の言う通りにするのか」という部分に触れられると、「確かにそれが正しい

ことは分かり、そうしたいとは思っても、自分にはできない」と弱気になって、心を閉じて

しまうのです。何故私たちはそうしたいのに、出来ないのでしょうか。その理由は、あるので

しょうか?それは、自分の感情の問題です。そこにきちんとした理由があるならば、答えが

あり自分で解決できる筈です。しかし、「気持ちが付いていかない」という感情が嫌がって

いるだけなら、蛇の頭で一生懸命「できない理由」を考えても、答えは出てきません。

自分勝手に「できない」と思っているだけです。ならば、その蛇の頭から離れて、絶対主の頭

で考えれば答えは出てきます。そして、その答えに勇気を持って同意すれば良いのです。

絶対主の頭で考えれば、「できない理由がないなら、やればいい。」、「絶対主はそうしな

さい」と言われているのですから、「心をオープンにしてそうすればいい」だけのことです。

このように、単純に決める事が、
「絶対主の頭で考えるということです。」私たちは、常に

色々な問題にぶつかり、その度に「どうしたらいいか」と悩みます。でも、いくら頭で考えて

も答えが出て来なかったら、もう考えるのを止めて、「絶対主に聞いて行こう」と意識を変え

ていくのです。ところが、時には、「心をオープンにして絶対主に聞いて行く」と決めても、

そうするのが難しい状況が起こってきて、つい自分の考えで決めてしまい、失敗してしまう

こともあるでしょう。そんな時は、「自分が間違っていました」と謝って、また絶対主に

オープンにした所に戻ればいいのです。「自分は心をオープンにしていた筈なのに、失敗して

しまった。どうしよう」などと、頭であれこれ考えても答えは出て来ません。だから、たとえ

失敗をして怒られたとしても、「自分が間違っていました」ということを表し、オープンに

して、悔いて改めて行けば良いのです。


(結)私たちは、これまでの色々な学びを通して、「心をオープンにして絶対主に聞き従って

行くことは正しい」ということは、充分理解してきたはずです。それなのに、いつまでも

「できない」と思い続けて自分の考えに留まるのは間違っています。その道に踏み出そうと

しなかったのは、自分の弱気な感情の問題です。
そこに理由は、一つもありません。もし自分

で考えて理由があったのなら、その問題に取り組んで、自分で解決できたはずです。しかし、

いくら理屈をこねても、そこからは何の解決もありませんでした。ならば、もう頭で考えるの

を止めて、絶対主に対して心をオープンにし、素直に聞いて従って行くのです。私たちが絶対主

に対して心をオープンにしない限り、イエス様という幹に(つな)がることはできません。

しかし、もし繋がれば、私たちは多くの実を結びます。
絶対主は、心をオープンにして従って

来る者を喜んで受け入れて下さり、イエス様を通して私たちに栄養を与えて下さる
のです。

ここに私たちの生きる道があります。どうか、絶対主に対して心をオープンにして、イエス様

(つな)がった信仰者になり、多くの実を結ぶ者となって行こうではありませんか。


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