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2019年7月7日

反発の心から離れて絶対主に従う

コロサイ人への手紙2:1~23



(起)「無条件で絶対主に心を開き、反発の心から離れて絶対主に従って行くこと」を学んで

行きたいと思います。


(承)さて、2節に、「完全な確信から来る豊かな理解によって、キリストに関する奥義

を知って貰いたい」とパウロはコリントの人々に語りました。それは今、私たちも創造の真理

を通して
「この命が絶対主によって創られ、生かされている命である」という理解に立ってい

ますので、その真理の中で聖書を読んで行くと、キリストに関する奥義が理解でき、絶対主は

何のために私たちをお造りになったのか、そして私たちは何を目的にして生きて行けば良い

のかを知ることができます。これが、
「完全な確信から来る、豊かな理解力」なのです。

そして、その理解力と、聖書を通して学んだ知識を絶対主にあって働かせて行くならば、

それは私たちにとって正しい知性の使い方となり、信仰の確信に至るのです。

(転)しかし、その知識は、自分の頭の中だけで「キリストに在ってこうすべきだ、ああ

すべきだ」と思うだけでは意味がありません。頭の中だけで理解したものは、すぐに消えて

しまうからです。ところが、自分の心の中に入って確信したものは、すぐに消えることは

ありません。それは、自分自身の具体的な行動となって表れてきます。だから、私たちは、

「完全な確信から来る豊かな理解力」、すなわち聖書を通して学んだ知識は、具体的にキリ

ストにある考え方として自分の心の中に入れ、実行して行く必要があるのです。その実行は、

絶対主が私たちの心を重んじられますので、まず私たちが自分の内側の罪を正直に認めた

上で、絶対主に心を開いてその通りして行くかどうかに掛かっています。そしてその生き方

を、命を閉じる時まで本気で行っていくかどうかを絶対主は見ておられます。そこで、本気

で従って行く心を持った者には、「これを任せよう、あれを任せよう」と、私たちを用いて

下さいます。ところが、心の本音を隠している人間は、自分の思い通りにならないと自分の

我に捕らわれ、いつ絶対主に背を向けるか分かりません。すなわち、自分の考えを腹の中に

溜め込んでいる人間は、その思いが否定されると、(せき)を切ったように自分の我が現れ、

「もういい」と背を向けて主を裏切る危険性があるのです。人間は皆その要素を持ってい

ます。だから、絶対主は私たちが心を開いて、反発の心から離れて従って来るかどうかを

見たいのです。反発の心を完全に消してしまうことは人間にはできません。しかし、反発の

心から離れることはできます。ですから、「反発の心から離れて、絶対主に聞き従って行き

ます」という「砕かれた心」を持って従おうとするなら、絶対主は「それで良し」と言って

下さるのです。そして、その者と絶対主の間の軋轢(あつれき)なくなり、その人に平安が戻って

きます。ところが、反発の心を持ったままでは、絶対主に対して「素直になれず」、自分の

反抗心を隠して心に抱え込みながら、その部分に触れられないように、また人に悟られ

ないように、自分と絶対主を欺いて行こうとします。ですから、そこには平安がある訳が

ありません。

 しかし、
反発の心から離れて、「どこまでも絶対主に心を合わせて行く」という気持ちに

変え
て、絶対主に近付いて行くなら、絶対主との間の軋轢(あつれき)は全く消え去っていきますから、

安心して自分の心をさらけ出し、自由な心で従って行くことができるようになるのです。

この心を私たちは今、持たなくてはなりません。絶対主は、私たちの心の内側を全部見て

おられますので、私たちが心の中に抱いた(よこしま)な思いも何もかも知っておられます。

それでも、
一切の債務証書を完全に破棄して十字架に釘付けにして(14節)、「わたしは

お前の罪についてとやかく言わない」と言って下さる
のです。それなら、私たちは無条件で

絶対主に心を開き、心の内をさらけ出して行くべきではないでしょうか。それをして、

初めて絶対主と自分が一つとなり、従って行くことの喜びが始まるのです。


(結) 私たちにとって、心を開き心の内をさらけ出すということは、人前に自分の愚かさ

を表すことでもあります。そうすれば、この世では人から軽んじられ、馬鹿にされるように

扱われることもあるでしょう。しかし、罪人が、自分を義人振るより、さらけ出して行く事

の方が、絶対主からも信頼されます。もし、クリスチャンが人前にも、絶対主の前にも 

自分の心を閉じていくなら、それは自分の罪を隠し続けることになりますから、絶対主にも、

人にも受け入れられる事はありません。絶対主は私たちの心の内を全部知っておられるお方

ですから、絶対主に対しても、人に対しても隠して行く必要はないのです。むしろ、私たち

は心を開き、心の内側を全部さらけ出すぐらいの生き方をしないと、自分を絶対主に対して

偽る習慣を身に付けて行くことになります。そうすると、「自分が悪かった」ということを

素直に出すことが出来なくなるのです。しかも、自分の罪を悔いる心が素直に出なくなって

しまいます。ところが、
絶対主は「悔いし砕かれた心を蔑まない」と言って下さるのです

から、クリスチャンは、自分を守って生きていく必要はないのです。ですから、今、この世

の考えに汚染されていた心を変えて、人前の体裁を気にしない本音の生き方に変えて行きま

しょう。これが、本心で絶対主に従って行くということです。どうか、条件なしで絶対主に

心を開き、反発の心から離れて絶対主に従って行く生き方を、始め出して行きましょう。


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